文:隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
だから、引退セレモニーが始まり、ヒロキの涙を見て、「あっ、本当のことなんだ」と初めて実感し、涙がとまらなくなったのだ。
ヒロキがフロンターレに残してくれたもの。
どんなことでも、何歳になっても、やり続けてくれたこと。
ヒロキじゃなかったら、今の雰囲気は作れなかっただろうし、
選手たちは、ヒロキが率先してやるからついていったという。
改めてフロンターレとサポーターのために、35歳となる最後の年までやり続けてくれたことに感謝したい。
2005年からキャプテンになり、それからずっとチームリーダーとして引っ張ってくれた。
最初の頃は「キャラじゃなかった」ヒロキは、先頭に立って挨拶することも慣れておらず、陰で挨拶の練習をマネージャーとしていたという。
後援会会員への手紙に、ひとり5000枚直筆サインを入れてくれたこともあった。
改めてキャプテン、選手会長を長年務め上げてくれたことに感謝したい。
一体感。
等々力を満員にする。
サポーターとともに。
フロンターレらしいチームカラーで優勝したい。
支えてくれている人に感謝したい。
ブレることなく、ずっと言い続けてくれた。だから、今のフロンターレカラーが出来たのだ。
それが、ずっと続くと思っていた。
でも、終わりが来た。
いつか、終わりが来る。
そんな当たり前のこともヒロキは改めて教えてくれた。
だから、私たちは今を大事にしなくちゃいけない。
そして、今の瞬間をずっとつなげていけば、ヒロキと一緒に創ってきたフロンターレカラーを未来につなげていける。それが、ヒロキがしてくれたことへの恩返しなんだ。
ヒロキさんはフロンターレにいて当たり前の選手だった。僕がフロンターレに入った時も、自分より年上の人がいると知って安心したし頼れるのが心強かった。前に出て何かをやる人ではないけれど、後方からチームを支えていたし、影響力が大きかった。今回、引退を決断したヒロキさんの気持ちを尊重したい。寂しい気持ちです。長い間、お疲れ様でした。
message from イナ
僕は入って1年目からファン感のステージに出ることになり、最初はフロンターレのファン感があんなことになっているなんて分からなかったし(笑)、正直に言ってサッカー選手なのにそこまでやるのかとも思いました。でも、ヒロキさんほどのベテランが「もっと練習をやろう」など率先して準備していて、そしてそれがサポーターを喜ばせるため、フロンターレの人気をもっと増やそうという思いでやっていることがわかり、そこまでチームのことを考えているのだなと知りました。
それからはヒロキさんを見習ってなるべく参加するようになりました。
僕もフロンターレのことがすごく好きだし、ヒロキさんやケンゴさんのように長くフロンターレにいてフロンターレで引退する時に周りから「お疲れ様でした」と言ってもらえるような選手になりたいです。
message from ユウ
天皇杯の鳥栖戦で、ヒロキさんに代わってピッチに入ることになりました。
試合が終わって、サポーターのところに挨拶に行く時、僕は、涙がポロポロ出てきました。負けている状態でヒロキさんと交代して入ったので、ヒロキさんの分もやらなきゃと思っていたので、何もできなかった自分が悔しかったのと、もうヒロキさんと一緒にできなくなっちゃうのかと思って…。
僕がフロンターレに入った時は当然チームで一番年下で、大先輩のヒロキさんが話しやすい雰囲気を作ってくれたから若手がすんなり入れる環境にしてくれていたこと、同じDFとしてたくさんのことを吸収させてもらい、本当にお世話になりました。
3年間一緒にやってきて、最後の1週間も普通に当たり前のように過ごしていた。だから、終わって初めて、いなくなるんだという実感が沸いて悲しかったです。誰かがやめて、泣いたのは初めてでした。それぐらい思い出のある先輩でした。
message from フク
2006年に僕が入った時のキャプテン、選手会長がヒロキさんでした。自分がその立場になった時に、ヒロキさんのように、またそれを超えたいなと思ったけれど、壁はなかなか高かったです。選手会長はまとめるのが大変だし、お手本にならなければいけない存在。それを淡々とやっていたヒロキさんは、すごいなと自分がその立場になりわかりました。
気付けばヒロキさんが引退すれば、ケンゴ、その次に長いのがリキと僕となり、これまでのタイトルを獲りたい気持ちでやってきた選手たちのこともわかるから、ヒロキさんの引退はすごく寂しいけど、自分はその思いをつなげていきたい。
message from イガ
僕が2006年にフロンターレに入った時は、ヒロキさんがキャプテンと選手会長の両方をやっていました。その頃は今みたいに近くにいなかったけど、大変そうな態度や不満を言うところをみたこともなく淡々と仕事をやり、試合中や練習中も感情的にならずに常に全体を見ているイメージでした。ヒロキさんは、すごく前に出てリーダーシップを発揮するというわけじゃなかったけど、陰でいろいろやっていることによって円滑にまわっていたことがたくさんあったんだな、と今自分が選手会長をやってみて初めてわかります。
昨年、タッピー(田坂選手)が移籍した後に自分が選手会長になったばかりの頃は、わからないことだらけで、よくヒロキさんに聞いて頼ったし、「今、チームでご飯を一緒に食べにいったほうがいいんじゃない?」など助言をもらいました。
ファン感は、ヒロキさんや上の人が頑張ってやっている姿を見ていなかったら、自分もやっていなかったと思う。ヒロキさんに引っ張ってもらって、感謝しています。13年間お疲れ様でした。
message from リキ
出会いは2003年の始動の時だったけど、最初はそんなに親しかったわけでもなく、2年目ぐらいにガミさん(浦上)とヒロキさんが仲良くて、そこに入って食事に行ったのがきっかけだったと思う。
入ったばかりの頃は、アップも全力でやる僕のことを、ピステが擦れる音を文字って、「シャカシャカくん」と呼ばれたり、「勢いくん」と呼ばれたりしてた(笑)。懐かしいな。
引退すると聞いて、今でも後悔するよ、と思っているし、何回もいい続けた。ACLも来年あるんだから、今から撤回しても、みんな聞かなかったことにするから大丈夫ってね。
ヒロキさんの引退は、寂しい。それと頭にきた(笑)。そのふたつの感情しかない。セレモニーはボロボロに泣いてしまったし、家に帰ってスカパーの放映を見て、また泣いてしまった。ヒロキさんの引き際なんだろうけど、自分にとっては、ヒロキさんがいてくれたからノビノビやれていたし、いて当たり前だった人がいなくなるのは不安です。気付けば、いてくれた。そのことはとても大事なことだったんだなと思っています。
message from ケンゴ
寂しいし、もうちょっとやれるのではとも思います。
ヒロキの場合、ぶつかって倒れたり不可抗力での怪我以外は、ほとんど休まなかった。とにかく今は、ヒロキがいないフロンターレが想像つきません。一番感謝をしていることは、キャンプの中休みの日に、選手全員に「今日はトレーナーも休ませるから行かないように」と配慮してくれていたこと。それを必ず毎年言ってくれていた。ヒロキがやるって言い出してサポーターのためにやることになったこともあると聞いています。
スタッフに声をかけて食事に誘ったり、若手を焼肉に連れていったり、気配りをしていた。人を思う気持ちがあるんだなって僕はいつも思っていました。
2001年に加入してきた時は、当時の武田ドクターと「かっこいいね。本当にサッカー選手?」って言い合っていましたね。30歳を超えてからは、それまでなかった筋肉系の怪我も出ることがあったので、練習前にトレーニングをしようという話をして、早く来て準備をするようになっていました。本当に痛みに強くて、今年も骨折しても試合に出ていましたし、昔も足が切れていても「大丈夫です」と言い、ストッキングを下げたら血だらけでドクターが止めたということもありました。今後もフロンターレでやることになると思いますが、いつかヒロキが監督になったフロンターレでトレーナーをやりたいです。
message from 境トレーナー
寂しいね。もうちょっと頑張ってもらいたかった。
ヒロキが入ってきた頃は、当時在籍していた同い年の林晃平とふたりでつるんでいて、双子のようだった。ヒロキは、最初からしっかりしていた。チームをまとめるのもヒロキだからできていたと思う。
引退セレモニーの時は、寂しくて涙が出た。天皇杯の鳥栖戦、ホイッスルが鳴った後、たまたまベンチ近くにいて、試合が終わって、ヒロキはベンチで涙を流していた。
チーム全体を見ているヒロキだから、僕や洗濯をしてくれている人にも感謝の言葉を言ってくれて、ありがとう。
message from 伊藤ホペイロ
なんとなく、来年ぐらいまでは選手を続けるのかなと思っていたので、ある日、「引退する」と軽くさらっと報告を受け、意外な気持ちがしました。
後悔しないの?と聞きましたが、「自分で決めたから大丈夫」と言っていました。でも、いつも自分で何でも決めるタイプなので、決めたんだなと思いました。今思えば、自分より若い選手もいるし、自分がメンバーに入ると誰かが入れないということもチラっと話していたことがあるので、そういうことも考えたのかなと思いました。
思えば、フロンターレでお世話になる時も、チームメイトの土居さん(義典)が四国出身で優しくしてもらったり、スカウトの方の人柄、強い、弱いということではなく、何よりチームの雰囲気が自分に合っていると感じて決めたようです。
若い時にキャプテンになって、どうしたらみんながついてくるだろう、と自分なりにいつもチームのことを考えていたように思います。家でファン感の練習をしている姿を何度も見ましたし、帰宅してきた愛車の音楽はファン感で歌う曲。本当にフロンターレが大好きだったのだと思います。
message from 伊藤宏樹選手の奥様・美和さん
我々家族からすると代表でもない選手が、家族が見守るなか最後の等々力であれだけ立派なセレモニーをやって頂き、「この子は、これだけ皆さんに愛されていたんだな」とビックリしましたし、感動しました。子どもの頃から喧嘩しても、親が来たらサッといなくなるような要領のいいところはありましたが(笑)、プレーでも、敵とぶつかるというよりさらっとプレーするようなところがありましたね。だから、13年間大きな怪我をせずにやってこられたのかもしれません。思えば小学生の頃から常に試合に出られる環境だったため、ある時、中学の先生から「壁に当たったら、大変だろう」と言われたことがありましたが、結局のところ壁に当たらずにさらっとそのまま行ってしまいました。
ここまでプレーさせて頂けたことは、周りの支えがあったからです。親として、相手の気持ちを考え、周りに迷惑をかけたらいかん、と育ててきたつもりです。キャプテンをさせて頂けたのも、そういう部分があったからだとしたら、うれしいことですし、長い間大事にして頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。ヒロキに対しては、長い間、家族全員、弟ふたりも含めて楽しませてもらいました。感謝しています。ごくろうさん!
message from 父より
等々力最終戦の2週間程前に、電話があり、突然に引退の報告を聞きました。いつもは淡々としたところがあり、怪我をしても本人からではなくチームからの発表で知るような感じだったので、珍しく本人からの報告でした。どのスポーツでも引き際というのはつきものですが、想像するに自分の思うようなプレーができなくなったと本人は言っていましたし、怪我などもあり、決めたのかなと思いました。等々力に行くまでの2週間で気持ちの整理はまだできていませんでしたが、セレモニーを見せていただきすごく感動しました。あの子も言っていましたが、ひとつのチームで長年やってこられて恵まれていましたし、皆さんのおかげで長い間やることができ、本当に感謝しています。両親ふたりともバレーボールの選手でしたが、あの子が小さい時に『キャプテン翼』が大人気で、サッカーをやるようになり、その兄に引っ張られるように弟ふたりも身体は大きかったのですがバレーボルではなくサッカーをやるようになりました。あの子は、ヤクルトと納豆で育ったんじゃないでしょうか(笑)。
スポーツで大切なことは、何でもそうですが、人との出会いや尊敬できる人との巡りあいや信頼関係です。そういうご縁を頂き、セレモニーでチームにして頂いたことは親として本当に感謝しています。
セレモニーが終わり、愛媛に帰ると、1通のメールが来ました。
「丈夫な身体に生んでくれてありがとう」
そのメールを読んで、私もふっきれた感じがしました。
今回、自分でひとつの区切りをつけ、次のステップに進みますが、人生はまだ続いていくので、これからも自分らしく、周りの方に助けて頂きながら、自分ができることをやっていってほしいなと思っています。
message from 母より
フロンターレに入ってからの13年間、クラブと一緒に成長できたことは、自分の中での大きな財産です。
等々力最後の日は、朝からいつも通りに過ごしていたけれど、等々力にバスが入ってきた時のサポーターが出迎えてくれた雰囲気に、ぐっと胸を打つものがありました。
ピッチに出てアップをした時も、なんとも言えないすごい雰囲気にぐっときました。試合に出た時もそうです。あれだけのセレモニーを用意してくれ、サポーター、スタッフの皆さん、お世話になった皆さん、関係者の皆さんに本当に感謝しています。
本当に等々力にはいい思い出しかありません。最初に愛媛から出てきた時は、等々力に対して特別な思い入れはありませんでしたが、いつからか、好きになっていました。
最後の挨拶は、事前に用意していませんでした。その時の空気や気持ちを大事にしようと思い、話をしました。その後のサポーターの皆さんとの握手もたくさんの方が寒いなか残ってくれてありがたかったです。
謙虚な気持ちでやろうと思ってサッカーを続けてきましたが、選手としては我が強かったり、目立つことをしていたら、また違った部分もあったかもしれない。代表についてもそうした部分を周りから指摘されたこともあったし、自分で思うところもありました。
引退を発表し、たくさんの友達や同級生、いろんな方から連絡をもらい、みんなに支えてもらっていたのだと改めて感じました。
キャプテンとして、何もしていないと自分では思うけれど、若い時にキャプテンになり、その頃は周平さんやオニさんら年上の方もいて、引っ張ってくれていたから自分もやることができたのだと思います。チームとして和を大事にしようという雰囲気もあったから、よく選手同士で話し合いをし、そうしてチームの絆が深まっていきました。
来年はACLもあるので、それを乗り越えるとまたチームは成長すると思います。何も心配はしていません。
唯一の心配は、バスでケンゴの横に誰が座るのかな、ということぐらいかな(笑)。ケンゴには、頑張ってほしいし、また違った意味で、選手として伸びるんじゃないかと思う。
リキ、サネ、ノボリ、ユウ、また生え抜きっぽく長い間居座っているイガワ、そのあたりの選手にはプレーだけじゃなくチームを引っ張っていってくれる存在になってほしいし、ならなきゃダメ。勝手に期待をしています。
3兄弟の長男として生まれ、両親ともバレーボールをやっていたので、丈夫な身体は両親からもらったものだと思う。いろんな地方に試合を観に来てくれたけど、最後、等々力で見せることができたことは親孝行になったかな。僕自身も嬉しかったです。
妻には学生時代からのつきあいで、大学時代も食事のサポートをしてくれたり、支えてくれて感謝しています。息子の励からもセレモニーで花束をもらった時は、感極まってしまった。2005年にキャプテンを任されるようになった時を同じくして生まれてきてくれた。記憶に残るまでプレーができればと思って頑張ってきた。何度もユニフォームを着せて一緒に入場もしたことも感慨深い。
自分のため、サポーターの皆さんのため、チームのため、いろんなフロンターレに携わっている人のためにっていう思いで頑張ってきたけど、やっぱり一番は、家族のためにやっていたのかな。
とにかく、フロンターレでスタッフ、選手、サポーターと一緒に成長できたことを幸せに思います。
本当にありがとう。