2002年11月2日、J2第41節大宮アルディージャ対大分トリニータの一戦は、終盤にケガから復帰した、この男による一撃で勝負の行方が決まった。前半26分、右サイドのMF西山がドリブルしてあげたセンタリングをFW吉田がボレー。GKがはじいたところを、「まさかへッドで決められるとは思わなかった」山根巌が渾身の力で押し込んだ。この1点を守りきり、大分トリニータはJ1への切符を手に入れた。
山根巌は、小学5年の時に広島市内の小学校でサッカーを始めた。いとこがやっていたから、ということの他に健康上の理由がキッカケだった。
「おれ、小児喘息だったけん、体を鍛えるためにやった」
6年になると週の半分は自分の学校のチーム、あとの半分は隣の学校から誘われて練習に参加するようにまでなり、この頃には、心配された小児喘息は完治していた。
広島市立二葉中から広島県立皆実高という、県内におけるサッカーのエリートコースを山根は進んだ。中学2年で全国大会に出場、3年の春には、推薦による皆実高校への入学が決まっていた。体育科が新設され、その一期生にあたる山根の年代には、ほかにも県選抜のメンバーが多数入学した。高校時代は、3年次に高校総体ベスト4に進んだほか、国体や西日本選抜にも選ばれている。県内有数のストライカーとして名を馳せた。
「2年の東西対抗では点とったなぁ。まあでも、広島のなかだったら、という感じ。他の地域だったらジュニアユース、ユースとか、うまいやつがいっぱいいるからね」
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順調に選手生活を送っていた山根は、高校3年の夏にはサンフレッチェ広島への加入が内定した。
広島では、サテライトからスタートした山根だったが、ハットトリックを含めた活躍ですぐに頭角をあらわし、やがてトップチームへと昇格を果たし、1年目ながら試合に6試合出場する。
「最初は、うわぁ、うめぇなあって思ったけど、すぐ慣れた。そう、入って1週間ぐらいはプレッシャーきついなぁと思ったけど、ちょっとやりだしたら慣れてきて、足も速かったしドリブルとかも好きだったけん。そういうので簡単に抜きよったけんね。だから1年目は意外とやれてなめちゃったところがある」
だが、プロの世界は甘やかしてはくれなかった。2年目は慣れない右ウィングバックのポジションに戸惑い、言葉が直接通じない外国人監督との会話にもストレスを溜めていった。
「要求していることが全部わかんないときもあるし、自分のしたいことも伝わりきらないから」
心機一転、3年目には「ダメならサッカーをやめるつもりで頑張った」山根だが、4年目には再び、苦悩する日々が続いていた。そんな山根を広島のフロントは「武者修行」として天皇杯の補強選手として大分へ送り込んだ。
「なんじゃこりゃ、って感じだった。まだ、大分はJFLで、環境も悪いし、これはもう無理かなって」
だが、やがて訪れるひとつの出会いが山根を待ちうけていた。
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1999年、J2開幕の年に石崎監督が大分に就任した。石崎監督に、当時の山根について振り返ってもらった。
「人懐っこかった。プレーは技術がしっかりしてるし体が強い。ぶつかってもほとんど負けないでしょ。それまで上がり目だったのを、ワシが来て、ボランチになったんじゃないかな」
一方の山根は、「『ばり走るよ』って山形のやつから聞いとって、やだなぁと(笑)。でも、やることはやろうと思っていた」
それ以来、1999年は同じく広島から期限付き移籍をしていた金本圭太と、2000年はシジクレイと不動のダブルボランチとして活躍した。「(ポジションは)どこでもよかった。でも、やりがいはあったよ」と山根は振り返る。
広島にいた頃、「自分のプレーに自信もあったし、なんで出られんのやっていうのもあった。若かったし。ほんとにサッカーやめようと思っていた」という山根だが、大分に移籍して変わったことは「勝ちをおぼえた」ことだ。
「それに、自分は絶対できると思ってたしね」
2001年5月、6勝5敗で第11節が終了した時点で石崎監督が解任された時は、突然の出来事に驚きをかくせなかったという。
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そして昨年、大分で昇格を果たした山根は、今季、再び石崎監督のもとでサッカーをすることになった。それまでのリアクションサッカーからプレッシングサッカーに変貌しているのを目の当たりにし、「びっくりした」というが、ハーフウェーライン手前でボールを奪って、相手陣地でサッカーをするという今年のフロンターレのサッカーを表現するうえで、10月18日対札幌戦のように、ことごとく中盤で相手の攻撃を食い止める山根の果たす役割は大きい。
「そりゃあ上がって点取りに行きたい時もあるけど、『上がるな!』ってイシさんに怒られる。だから、そういう気持ちはおさえて潰すというかやっぱり守備で貢献したい。プレスは、いけん時もあるし、やっぱきつい時もあるねぇ。でも、このサッカーをJ1でやったらおもしろいんじゃないかな。これだったら、(J1でも)勝てそうな気がする。おれ、勝てなきゃイヤだから」
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相手がボールに近づく瞬間、グッと体を入れてボールをいとも簡単に奪う。また、間合いを見計らって、瞬時に相手に詰め、ひざ下からの鋭い振りぬきでボールをカットする。試合中、何度もそんな場面がみられる。低い重心と決してブレない上半身が山根のプレーを支えているのは間違いないだろう。
「体が強いのは昔から。すごい骨太だって病院の先生に昔、言われたことある。この骨の太さは、身長180はいくねぇって。いかなかったね(笑)。それに、おれ、足遅そうにみえてけっこう速いんだよ。瞬発系だから」
体の使い方のうまさは、ストライカー出身ということがなせる技なのだという。
「もともとポストプレーヤーだったからね。体入れるのもそうだし、柔道みたいな感じで足を使うのも好きだった。でも、ディフェンスに興味もちはじめたのはボランチになってから。昔は、しなかったよ」
そして、なによりも自信があるのが「読み」だ。
「エサまいて食いつかせて、わざとこっちあけて行かせて獲るとか。目をみればわかる」
山根には、サッカーをやるうえで影響を受けた日本サッカー界を支えたふたりの先輩がいる。プレー面で衝撃を受けたのは、サンフレッチェ広島に在籍していた風間八宏だ。
「入った時は、へぼいなぁって思ってた。全然、動かないし。でも、よくみたらばりうまかった。ポイントポイントで全然違うから。体の入れ方もパスもすごいうまい。すごいボールじゃないんだけど通るんだよね。計算してるから」
メンタルな面で影響を受けたのは、広島、大分で一緒に過ごしたGK前川和也だ。
「人間的にすごいいい人で、すっごい好き。優しいし男気ある。人を悪いように言わんのよ。だから、おれも絶対、人を悪いように言わんようにしようって思った。サッカーの相談はめったにせんけど、例えば、試合中は、すごいいろいろ言うけど、終わったら『あの時はのう…』って肩を抱く感じで話してくれる。代表クラスだなと思った」
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広島にいた頃、サッカーにモチベーションを持てなかった山根を知っているだけに、前川から言われた言葉は深く響くものがあった。
「酔ったらいっつも言われてた。『お前はね、ほんとにまじめにやったらいいんだよ』って。大分で一緒にプレーできて嬉しかったし、肩があがらないから限界感じて引退するって聞いた時は、けっこう悲しかった」
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今年、まだ第2クールを戦っている時に、山根はこんなことを言っていた。
「ラスト5試合、また得意の接戦になるんじゃないの。J2は、そういうことになってるんだよ」
その接戦の先にある昇格と3位の両方、まさに天国と地獄を知っているのが山根である。昇格のために負けられない、絶対に落とせないという緊張感が漂う闘いにも何度も身を投じてきた。
「おれは、そういう大事な試合が楽しいの。この時期が楽しい。ワクワクする。マイナスな気持ちになったら負け。おれは、どっちかというとそれで燃えるほうだからね」
残り2試合となった湘南戦の2日前、山根に問いかけた。この時期チームにとって一番大事なことはなにか?
「ムードかな。(チームの)雰囲気は大事だから、おれは、やるべきことをやるだけ」
その言葉を聞いて、出場停止でスタンドから試合を見守った11月8日対アビスパ福岡戦の試合後、満面の笑みを浮かべて選手ひとりひとりを握手で出迎えていた山根の姿が思い出された。
わずか1年前の昇格の味を知る男が、混迷を極めるJ2の争いについて、最後にこんな風に表現した。
「そういう魔物が棲んでいるんじゃないの。最後に、(上を)刺せればいいかな」
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1995年、サンフレッチェ広島に加入。1998年、天皇杯より大分トリニータ(当時、トリニティ)に期限付き移籍(のちに完全移籍)。今季より川崎フロンターレへ。
1976年7月31日生まれ、広島県出身。170cm、63kg。 |