2006/vol.02
エジソンが来日したのは1986年のこと。それ以前、ブラジルでのエジソンの歩みはあまり知られていないが、ユニークで興味深い話の数々がエジソンの口から語られた。
9人兄弟の下から2番目に生まれたサンパウロ出身のエジソン。実は、ラモス留偉とは、家が200メートル先にある、という幼なじみである。その偶然が、後にエジソンと日本とを結びつけることになった。
「ブラジルでラモスの試合を観にいったこともあったし、憧れのお兄さんって感じだった。小さい頃から知ってるけど、とにかく負けず嫌いで気が強い。遊びでも絶対に負けたくないっていうタイプだった」
17歳からサージFCのユースでプレーしていたエジソン。だが、サッカー一筋でここまで来たわけではなく、実は20歳のときに生活のためにサッカーをやめ、不動産屋でそれから2年半仕事を経験している。
「サッカーでお金をあまりもらえてなかったし、生活も大変だったから、もういいか!って感じで途中でやめちゃったんだよね」
そうして遊びやフットサル以外はサッカーをやることもなくなっていたエジソンに、転機が訪れる。すでにラモスに続きエジソンの実兄・トレドも読売クラブでプレーしていた1986年、ふたりに誘われ読売クラブのテストを受けることになったのだ。そして、3ヵ月後に読売クラブへの加入が決まった。
来日してからの数週間が、人生で一番大変な時だったとエジソンは振り返る。
「とにかく大変だったよ。来日して1週間後に、読売クラブが韓国遠征に行くことになっていたから、残ったのは選手数人と俺だけ。ひとり暮らしだったんだけど、言葉もわからないしスーパーに行ってもなにを買っていいかもわからない。ガスもまだひいてなかったしね。この時期が一番痩せたよ(笑)」
日本で再びプレーするチャンスを得たことで、もう一度真剣に練習に取り組みはじめたエジソン。“今日一日”を送ることと練習についていくことに必死だった毎日。壁にぶちあたることは、数え切れないぐらいたくさんあっても、落ち込んでいる時間もなかったという。
「やっぱり外国人がプレーをすることは甘くないからね。短時間で力をみせなければ、それで終わってしまう。後がなかったから自分で努力してなんとかするしかなかった。みんなが帰った後もひとりで練習したし、監督にもすごいアピールした。例えばメンバーから外されても落ち込んで腐ったりしないで、もっともっと頑張って練習でアピールする。そんな感じだったよ」
その努力が実を結び、1986年秋のリーグ開幕戦、エジソンはピッチに立ち、リーグ優勝、天皇杯優勝、そしてアジアクラブ選手権にも出場するという読売クラブの黄金期に立ち会うことになった。
「開幕戦はお兄さん(トレド)や戸塚さん、都並さんとケガ人が多くて俺にたまたまチャンスがまわってきたんだ。そのチャンスを掴んでそのまま試合に出られることになった。読売では4年間プレーしたんだけど、本当にいい選手が多くて、みんな明るくて楽しかった。試合が終わったら、必ず全員で集まってご飯を食べてたし、読売で俺はプロ意識を学んだしサッカーの楽しさを思い出した」
その読売クラブと契約が切れ、1990年、エジソンはフジタ工業サッカークラブ(後ベルマーレ平塚)の一員となる。1992年にはJFL1部優勝を決めJリーグ昇格。1994年には天皇杯優勝。1995年、古巣であるヴェルディ川崎戦(当時)でJリーグメモリアルゴールとなるJリーグ通算2000ゴール目も決めている。ここベルマーレでエジソンはJリーグの舞台を踏んだ。
「読売をやめることになったのは辛くはなかった。選手やチームは変化するものだし、チームがもっと力をつけるためには仕方のないこと。やめたとき与那城さんがチーム探しを手伝ってくれて、それは本当に感謝しているんだ。それからベルマーレでは、本当に充実した時間を過ごせたよ。試合にもボランチとして出ていたしね。やっぱり一番うれしかったのはJリーグの昇格を決めたことかな」
1996年、エジソンは引退を表明した。そしてベルマーレ平塚に残り普及活動を担当、子どもたちにサッカーを教えることになる。
ところが、物語はまだ続く。翌1997年、エジソンは現役復帰し、再びプレーヤーとしてピッチに戻ってきたのだ。そして、最後のチームとなる横河FCで2000年までなんと4年に渡ってプレーを続けたのだ。現役復帰についてエジソンは語る。
「引退して子どもたちにサッカーを教えていたとき34歳だったんだけど、まだやれるなっていう気持ちが沸いてきてしまって…、それで横河に入ったんだ。関東リーグだったから大学生は大学が終わってから、社会人は仕事が終わってから来るからナイターの練習しかできなくてね。そういえば、そのときに、いま新潟にいる鈴木慎吾がいたんだ。まだ、18歳ぐらいだったかなぁ。こんなにうまいのに、なんでこんなところにいるんだろう!もったいない!!って思ったよ。絶対にプロでもやれるって思ってたから、その後、慎吾がテストを受けて新潟に入ったときはうれしかったよ」
横河FC時代、エジソンはプレイヤーとして思い出深い出来事を経験した。それは、そのままエジソンのサッカー人生のなかでも大切な記憶となっている。
1999年8月23日、ラモス留偉の引退試合に、エジソンは読売ラモスオールスターズの一員としてプレーしたのだ。顔なじみが揃った懐かしさと大事な試合に声をかけてくれたラモスに対する感謝の気持ちで胸がいっぱいだったとエジソンは言う。
「ラモスのことは恩人だと思っているからね。それに、地域リーグでプレーしていた僕のことを呼んでくれたこともうれしかったんだ。ブラジルにいた頃もそうだけど、日本に来るきっかけを作ってくれたり、よく自宅に食事に招いてくれたり、日本にお兄さんがふたりいるみたいだったから心強かった。本当に感謝しているんだ」
そうして、2000年で選手としてのキャリアを終え、フロンターレで新たな道を歩みはじめたエジソン。
1993年にプロリーグが開幕し、劇的に変化を遂げてきた日本サッカー界だが、エジソンはその過渡期を間近で体験してきた。もしも、エジソンがあと何歳か若かったなら、日本代表をめざして日本人に帰化することも考えただろうか?
「あと5歳ぐらい若かったらそうしていたかもしれないね。でも、当時とはレベルが違うから、いまのJリーグで俺がやれていたかどうかはわからないけど。Jリーグがはじまって、本当に日本人のレベルはあがったと思う。日本人は外国人にくらべて身体の作りは違うけど、決して負けていない。あとは、気持ちで負けないこと。これが大事だと俺は思ってる」
日本が大好きで、これから先も、ずっと日本で生活していくつもりなのだというエジソン。その理由は? と聞くと、「日本が好きだから」と言ってはにかんで笑った。
「気がついたらこんなに長くいたという感じ。日本人にはたくさん助けてもらったしね。俺の経験からいうと、外国人とわかりあうためには、お互いにわがままを言うんじゃなくて助け合うことが大事。いっぱい助けてもらったから、俺からも少しずつ恩返ししなくちゃね」
1986年、来日。読売クラブ(当時)、ベルマーレ平塚(当時)、横河FCを経て、2001年より川崎フロンターレのコーチに就任。1995年8月12日、Jリーグ通算2000ゴールを決めている。
1962年11月29日生まれ、ブラジル出身。