2006/vol.03
現役時代は常勝軍団・鹿島アントラーズで長年に渡りゴールマウスを守っていた古川昌明、現フロンターレGKコーチ。Jリーグが華々しく開幕した当初からすでに活躍していた古川しか私たちは知らない。だが、そこに至るまでにはドラマのような濃い日々があったのだ。
それまでフィールドプレーヤーだった古川は、先輩GKのケガにより中学1年生の終わりからGKをすることになった。ひょんなことからはじまったGKとしての人生は、それから思いのほか長く続くことになる。
そして高校卒業後、古川は本田技研に入社した。
転機は早く思わぬ形で訪れた。願ったこととは違う方向で、だったが。21歳になる年に、GKが足りないという理由で本田技研狭山への異動が命じられた。JFLでトップ争いをする本田技研と、県リーグに所属する本田技研狭山。環境は雲泥の差である。古川は悩み、考えた。
「ちょうどその頃、プロリーグの話があって本田はプロ化しないという方向だった。悩みましたね。プロになりたいと思ったけれど、これから県リーグでプレーする自分にはそんな道はないだろう。同期の黒崎や北澤とは違うんだって。会社に残ってサッカーをやるか、サッカーをきっぱりやめて仕事をするか、大学に行きなおして学校の先生をめざすか、それともプロをめざしてブラジルに行き、帰国後にプロになるためにチャレンジするか…」
さまざまな選択肢を頭に入れ、本田技研狭山に向かった。1年で、チームは関東リーグに昇格。その頃には悩みの回答は出ていた。
「よし、やっぱりチャレンジしよう。ブラジルに行きたい」
決め手は、「後悔だけはしたくない」という思いだった。とはいえ、自分の思い込みだけで決めたわけではなかった。本田技研狭山に移る前、本田技研に来たブラジル人のGKコーチの存在を知り、コーチによってこんなにもGKの上達に関係があるのかという発見がブラジル行きを後押ししたのだ。
1991年6月、なけなしの金をもって古川はブラジルに渡った。最初の半年はサンパウロの田舎町のチームに身を置いたが、田舎町のチームには古川が思い描いたようなブラジル人GKコーチはいなかった。だが、ここからがドラマの始まりだった。古川の知人が、たまたまテレ・サンターナの友人だったのである。サッカーとは関係のない話で、その知人がテレ・サンターナを訪れるのだという。チャンスかもしれない。古川は一緒に連れていってもらった。
「いま、ここにいる子はプロをめざしているんだけど、練習をするところがないんだ。どこか紹介してあげてくれないか?」と知人が問いかけた。
テレ・サンターナの答えは、短かった。
「それなら、うちでやればいい」
日本からの留学生は、自らお金をクラブに払って練習させてもらうケースも多い。お金のない古川に横槍を入れる人ももちろんいた。そんなとき、テレはこう答えた。
「ここでは俺が王様だ。誰にも文句は言わせない」
強豪チームであるサンパウロのホームゲームに帯同し、勝つと一緒に喜び合う。そんな日々が続いたころ、クラブの上層部の人たちが名前を連ねて契約書のようなものを作ってくれた。
── マサは、ここサンパウロFCでテレ・サンターナが監督でいる限り自由に練習してもよい ──
そうしてブラジル人GKコーチの下で練習を積み、ブラジルに渡ってから1年2ヵ月が過ぎたころ、日本に戻った古川は鹿島のテストに合格し、念願のプロ選手の切符を掴み取った。
「自分がすごくうまくなっているのをわかっていたから、チャンスをもらえれば絶対にテストに受かると思ってました。キーパーコーチの教え方次第で選手は伸びるんだと身をもってわかっていた。だから、そのころから将来はGKコーチになりたいと決めていました」
ここまでの話を書くと、古川が強い人間で物怖じせずに果敢にブラジルへと踏み出していったかのように思えるかもしれない。
そうではなかった。
「俺はなにごとも、すごい慎重派なんですよ。最悪の場合から最高の場合まで幅広く考えて、最悪の場合にとらなければいけないリスクも考えましたよ。本田をやめてブラジルに行って、でも結局プロになれなければ仕事をみつけるところから始めなければいけない。そういうのを全部ひっくるめて考えて、とらなければいけない最大のリスクがあっても、つかめるかわかならない一番やりたいことをめざせるかを自分に問いただして。でも、やろうとしなければ、それはわからないまま。やれるときにやらずに後悔するんじゃないか? 1回しか人生はないんだぞって思ったんですよね」
ブラジルでのどん底の生活があったから、古川は輝かしいJリーグの場に身を置いても冷静でいられた。
「ブラジルに行くとき、反対した人もたくさんいたんですよ。でも、鹿島に入ったとたんに『お前は成功すると思ってたよ』って。そういう人間の嫌な部分もみました。Jリーグで活躍して代表に呼ばれたりしたら、ちやほやされましたよ。でも、俺自身はなんも変わってないですね」
自分の未来図を描けていたからか、古川の引き際はすっぱりと潔かった。やめる年の夏にはジーコに意思を伝え、ブラジルでコーチの勉強をしたいので協力してほしいと申し出、快諾してもらった。そして、再び10年の歳月を経てブラジルで、今度はGKコーチになるためのチャレンジングな日々を送ることになる。
そこで、10年ぶりの再会が古川を待っていた。
ブラジル行きを決めると、さっそく鹿島時代の恩師であるカンタレリGKコーチからの電話で誘いを受け、コリンチャンスに向かった。当時のコリンチャンスのGKはジダ。カンタレリについてGKコーチの勉強をするというチャンスをもらった。さらにコリンチャンスには、ルシェンブルゴ監督、そしてスーパーバイザーにかつてサンパウロで教えを受けたGKコーチ・ヴァウジールがいた。
「ヴァウジールはその頃もう60歳を過ぎてたと思うんだけど、かっこいいスポーツカーに乗ってサングラスかけてすごい若いんだよね。俺をみて『また来たのか』って笑って。ヴァウジールには怒られた記憶ってないんですよね。若いときに教えてもらったときも、悪いところも説明してくれるけど、いいところを必ずほめてくれた。日本にいたときは、これじゃダメだって言われることのほうが多かったから、そういうところは見習うべきところですよね」
その後、一旦日本に戻りライセンスを取得し、再びブラジルへ。ジーコのチームCFZでU-20チームのGKコーチに就任した。日本への一時帰国の際には、Jリーグチームからのオファーもあったが、古川は断った。
「いつクビになっても笑って『ありがとうございました』って言えるぐらい自信がなければ、だめだと思ってた。たった半年ブラジルで勉強しただけの自分に、それはまだできない。のどから手が出るほど欲しい仕事だけど、申し訳ないと断りました」
「俺は、決して強い人間でも、強い選手でもなかったんですよ。22歳でブラジルにひとりで行って強くなれたし、キーパーとしてもそこが別れ目だった。普通の人生を送っているよりよっぽど楽しいと思えますね。あのときは、苦しかったですよ。言葉もなにもわからずに行って、耳でひとことずつ覚えてね。コーラ1本買えないんですから。黙っててもみんなの仲間に入れないから、ふざけてみたり、自分から恥ずかしがらずになんでもやれなくちゃやっていけない。日本にいたら言葉も通じるし普通に生活できていたことも、向こうではなんでも余計に一生懸命やらないといけない。夜空を見上げることもあったし、部屋のなかでひとりで日本語で、でっかい声だして歌ったりしてました。風呂もトイレも共同のところに住んでたんだけど、大晦日は紅白歌合戦をテレビでやるから1階の食堂にみんな集まってテレビを観る。『日本に帰りてぇなぁ』って思うよね。でも、それを乗り越えたから強くなったんですよ」
そして、言葉を続けた。
「成功してもしなくても、これをやってみようと思ったことを一生懸命やれば、たとえ失敗に終わったとしても自分のためになっているはず、絶対に。なにもやらずに『あのときやっていれば、いまこうなってたはず』と言う人がいるけれど、じゃあやってみればいいじゃんって思います。やろうと思ったときに、その気持ちを行動にうつしただけでもその人は成長する。それだけでも、その後の人生が違ってくると思うんです」
人間は変われる──。だからこそ、意識が変われば自分がどんどん前に進んでいけることを選手たちに知ってほしい。そう願っている。
「俺の仕事は、いつ誰が試合に呼ばれてもいいようにコンディションを整えること。誰にも平等にチャンスがあっていいわけだし、平等に成功するチャンスがあるのが正しいやり方だと思う。ただ、誰もが試合に出られるわけじゃないから、当然ストレスがあるし、気持ちが落ちちゃうことがあるのは人間だからしょうがない。だから、いかに楽しく集中して練習に乗らせるか。目的が同じでもやることが違えば新鮮さが違うし、遊ばせるような感じで練習させて気づいたら2時間経ってたというのが理想ですね。カンタレリは、そうだった。そして、技術的には無駄なところで飛ばずにシュートが飛んできても足を運んですっと人の何倍も早くステップしてキャッチできるような、そんなGKを育てていきたいですね」
現役時代は、鹿島アントラーズで不動の守護神として活躍。引退後は、ブラジルに渡りGKコーチを経験し、2003年より川崎フロンターレのGKコーチに就任。1968年8月28日生まれ、千葉県出身。