2006/vol.04
2005年、念願のトップチームでフロンターレのユニホームを着ることになった都倉。プロ入り初年度は、リーグ戦3試合に出場した。初出場となったビッグスワンでの新潟戦では超満員のスタジアムでのデビュー戦となった。“K点越え”を実現した鹿島戦は、プロとしてはじめて味わう勝利にホイッスルが鳴った瞬間、飛び上がるようにして喜んだ。アウェイのレッズ戦では波乱万丈な展開のうえ、都倉自身GKとの交錯によりわずかな出場時間で退場に。やりきれない表情でピッチを後にした。
「もちろんレッズ戦は結果には満足してないけど、手応えもあった。ポストプレーが課題なのでそこを練習でとりくんで、あとは試合に出ることはもちろんですが、点をとりたいですね。昨年はプロの生活に慣れないとこともあって少し時間がかかったけれど、今年はもう言い訳はできない。“飛躍”の年にしようと誓いを立てたので、昨年の経験を踏まえて今年は試合に出られるように無我夢中でやっていきたいです」
都倉賢がサッカーをはじめたのは慶應幼稚舎時代に遡る。わんぱくぶりを見かねて、ありあまるパワーを発散させるためにスポーツをやらせたほうがいいのではないかと思った母親が連れていってくれたスポーツクラブでサッカーをやることになったのだ。小学校時代も続けてそのスポーツクラブに通っていたが、練習があるのは週に2回程度。サッカーをメインにしてはいたものの、そのほかにも父親の勧めで野球、水泳、テニスといろんなスポーツに取り組むことになった。スポーツや勉強に取り組む姿勢は、父親からの影響がかなり大きかったことが都倉の話を聞いていると伺える。
例えば、こんなことがあった。
小学校のときのこと。慶應では毎年、10種類ほどの種目の合計点で競い合う、恒例となっている体力測定が一大イベントとして行われる。都倉は、大会の半年前から父親と6時起きをしてトレーニングに励んだという。
「ジョギングしたり、苦手な懸垂を克服したり、50m走をしたり。雨の日以外は、毎日ふたりで練習でした。それで、4年から6年にかけてそれまでの慶應の記録を塗り替えたんですよ。20年ぶりぐらいの記録更新だったんです。親父は、『継続は力なり』っていうのを僕に教えてくれた人ですね。なにかを成し遂げようと思ったときに目標設定を決めて短期目標から長期目標まで掲げるタイプなんです。この経験は僕には自信になったし、1日1日の積み重ねが大事なんだっていうことを知るきっかけになりました」
中学時代は、セレクションを受けて横浜F・マリノスジュニアユース菅田へ進む。そこではじめての挫折が待っていた。
「僕は小学校のときから体が大きくて中学時代も一定の割合で伸びていたんですね。でも、周りは中学生になると成長期で、ぐーんとみるみる大きくなるじゃないですか。なんか、取り残されたような気持ちになったんですね。それまで先発で出ていたのが当たり前だったのに、3年生のときはほとんど出られなくて…。気持ちの波もあったし、中学時代はうまくいかない時期でした。自分のなかでプレーも気持ちも整理がぜんぜんついていなかったんじゃないかと思います」
結局、菅田からユースへ昇格できたのは、ただひとり。もちろん、それは都倉ではなかった。そこで、横浜FCユースと川崎フロンターレユースのテストを受け、そこから川崎フロンターレと都倉のストーリーが始まることとなった。
転機が訪れたのは、ユースに入って1年が経った高校1年から2年になる2003年の春のこと。都倉の通う高校が他の学校よりも早く春休みに入るため、コーチから「トップチームで練習してこい。いい経験になるぞ」と言われ、1ヵ月間、トップチームに合流することになったのだ。未知なる体験にワクワク感がとまらなかった。
「もうすごい充実してました。いままでまったく足を踏み入れたことのない場所であり空気であって、なんかそこで化学反応が起きたみたいな感じ。練習は、ほんとにキツかったですけどね。みんな優しくしてくれて、茂原さんとかオカさん(岡山)とか俺が最後まで残っていると車に乗っけてくれてメシ一緒にいこうよって誘ってくれて」
スピード、強さ、判断──。プロのレベルに混ざって練習したことで1ヵ月後、ユースに戻った都倉は自分があらゆる面で成長を遂げていることを肌で感じていた。
そして、時は流れ高校3年の夏。その年の春にケガをし「フィフティー・フィフティー」だと言われていたトップ昇格が、ついに現実のものとなった。
「うれしかったですよ。それはもう。周りも喜んでくれて。やっぱり下部組織から上がっているわけだから、都倉をめざして頑張っている子がいるっていう話をコーチから聞くこともあるし、自分が活躍すればフロンターレの下部組織に入りたいっていう子が増えるかもしれない。そういう意味でも背負うものはあるし、頑張らなきゃいけないですよね」
ユース最後の大会となったのはJユースカップ(現在のサハラカップ)。大分に0対1で負けて都倉のユース生活は終わりを告げた。
「岩渕さんが監督だったときには技術的に成長させてもらって、3年で大木さん(現ヴァンフォーレ甲府監督)が監督になってからは心を強くしてもらったと思います。毎年その年の最後の大会で負けると、なんでもっとやれなかったんだって自分に悔しくて泣いていたんです。でも、大分に負けたとき、やり残したことなく毎試合に臨んだ結果だったので、悔いもなかったしスッキリ終われたんですよね」
高校とフロンターレユース。充実していた3年間が終わった。慶應大学への進学もめざしていた都倉にとっては、高校時代は学業とサッカーの両立もひとつのテーマだった。高校2年のときに神奈川県が優勝を遂げた国体は、その意味でも都倉にとって思い出深い大会になったという。
「勉強や試験は最低限のラインはきちんとクリアしようという感じでしたね。国体のときはちょうどテスト期間中だったんですよ。土曜日にテストが終わってから静岡に行って日曜日に試合やって帰ってきて月曜日にまたテストっていう感じで。寄せ集めのチームなのに本当に仲良くて、3年生のタニ(谷口)くんたちを中心にみんな結束してファミリーでしたね」
都倉は“ポジティブ・シンキング”な人間だ。それは、両親からの影響もあるだろうし、本人の性格によるところも大きいだろう。本や人から聞いた話を自分に取り入れ、モットーとする柔軟さもその理由なのではないだろうか。
「以前に巨人の上原投手が言ってたんですけど、負けて悔しい試合でも勝った試合でも自分の出来がよくなかったときに、とにかく悩むらしいんですよ。でも、いくら悩んでもその日の12時までって決めているんだそうです。それを聞いて、よし僕もそうしようって。高校生ぐらいまでは自分でもどれぐらい悩みをひきずっていいものかわからなかったんですけど、こういうのを取り入れてみようって。それから高校生のときに出会った『スラムダンクの勝利学』という本にも影響を受けました」
『スラムダンクの勝利学』とはスポーツ心理ドクター・辻秀一が書いたスポーツも人生もただ頑張るだけでは意味がない。漫画『スラムダンク』をテキストに勝つための心理学について綴った本だ。
「この本もまた、化学反応が自分に起きたんですよね。そのなかで一番印象に残っているのは、『目標に向かって“石”を置いていく』という項目。毎日キレイに石を積み重ねていけば、ずっとキレイに積み重ねられていく。でも、1日でも適当に置いてしまったら2、3個は積めても100個、1000個積んだときに土台がぐらぐらになってしまうっていう。そのイメージがすごく自分にわかりやすかったんですね。1日1日振り返ったときに自分と向き合って、きょうもちゃんとできたって思えることが大事だと思うんです。それから僕は天才肌とは程遠くて、やらなきゃダメな人間なので、1日1日全力を尽くす。それを継続することが自分の力になっていくんですね」
継続は力なり──。熱く、積極果敢なプレースタイルが持ち味の都倉。ポジション争いが激化されるフォワード陣に割って入るべく、左足のシュートにさらに磨きをかけ、心に誓った言葉を胸に日々のトレーニングを積み重ねていく。
「職業を楽しみながらやれることって、これほどすばらしいことはないですよね。昨年1年間の経験で、自分がどういうプレーをしたら活きるのかを確認できた。前線でもっと起点になってキープできるようになりたい。ゴール前で強さを発揮できる選手になりたいです。そうやって幅を広げてとにかく試合に出て全力でプレーして、観にきてくれたお客さんが感動や勇気を持ち帰ってくれるような選手になりたいです。チャンスがきたら結果を出す自信はあります」
フロンターレユースから2005年トップチームへと昇格。左足から繰り出される強シュート、屈強な体を武器に果敢に攻めるストライカー。1986年6月16日生まれ、東京都渋谷区出身。