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[2003─2020 中村憲剛選手 引退]
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Columnsコラム

スペシャルインタビュー vol.03ジュニーニョからケンゴへ

インタビュー&翻訳、テキスト、現地撮影:藤原清美 Fujiwara Kiyomi

 ジュニーニョの言葉が、やがて、クラブ伝統のスピリットになった。

「サポーターは、いつも試合に勝ったらおめでとうと言ってくれるけど、こちらこそみんなにおめでとうと言いたい。いつも一緒に戦ってくれてありがとう。」

 “川崎の太陽”と呼ばれ、9年間を川崎フロンターレで戦い抜いた彼は、今、故郷サウバドールでサッカースクールの運営と指導を手がけている。その変わらない熱さと共に、フロンターレでの思い出と、中村憲剛について語ってくれた。(文中敬称略)

ジュニーニョ

「何かを」達成するために行こう

ジュニーニョが最初に日本に行った時は、パウメイラスの選手が、当時J2のフロンターレにやって来るということで、期待感が大きく、クラブの人達は、あなたが住むことになっていたマンションの前で待ち構えて、歓迎したそうですね。

「で、僕のテンションが低かったんだよね(笑)。あんな長旅は初めてで、到着した時は、完全にボーッとしていた(笑)。時差もあって寝ぼけていたし、1月だったから、あんな寒さを感じたのも初めてだったしね。当時のすべての経験を、鮮明に覚えている。何かにつけて『すごいな、これ!』という感覚だった(笑)。」

フロンターレでは、パウメイラス時代よりも前でプレーすることになったんですよね。そのため、あなたはものすごくシュート練習をしていました。チームメイト達は、陽気で明るいイメージを持つブラジル人のあなたが、あれほど練習熱心で、しかも、努力でシュートの技術を上げ、ゴールを重ねていくのを見て、信頼感を増していったそうです。

「フロンターレに行く前、ブラジルでよく聞かれたんだ。そのクラブでは、過去にどんな選手がプレーしたのか、どういうことを達成してきたのか。だから、僕は決めた。その例に挙げられるような、何かを達成するために行こう、と。

 クラブに加入する時には、誰もが大勢のうちの1人だ。何も残せずに終わった選手達もいるだろう。だから、すごく努力した。いつでも試合に出て、ベストを尽くしていたい。それなら練習しなければ。練習して、このクラブで僕の名前を刻みたい、と。」

ジュニーニョ

ジュニーニョ

ジュニーニョは、クラブに1つの伝統を作りました。試合に勝った時、普通はサポーターがチームに「おめでとう」と言いますが、あなたはサポーターに「おめでとう」と言った。そして「僕らと一緒に戦ってくれてありがとう」と。

ケンゴ(中村憲剛)は今でもあなたと同じように言うし、クラブも、優勝した時には最初に「優勝おめでとう」「いつもありがとう」というメッセージを出すようになりました。

「…それを聞いて、鳥肌が立っているよ。

 2003年、僕がフロンターレに入って間もない頃、スタンドには小さなグループしかいなくて、そこで彼らが打楽器を叩いていた。寒いのに、上半身、裸のサポーター達もいて、どうかしてるよ!って(笑)

 でも、僕らを盛り上げてくれて、ああ、彼らが幸せな思いで家に帰れるように、プレーしなきゃいけないと思った。

 僕もサポーターだったから、分かるんだ。兄がサッカー選手で、地元バイーアでプレーしていた時、僕が8歳の頃から、両親はいつもスタジアムに連れて行ってくれた。おかげで、スタンドで応援することが、サポーターとチームの両方にとって、どれほど大事なことかを感じることができた。

 サポーターも大変だよ。入場券を買ったり、仕事を調整したり、雨が降ったり、寒かったり、暑かったり。そういうどんな時でも、彼らはあそこにいる。だから、いつでも感謝していたんだ。」

ジュニーニョ

ジュニーニョ

サポーターは今でも、あなたを“川崎の太陽“と呼んで、称え続けています。

「すごく好きだったよ、その愛称。故郷の暑いサウバドールを思い出させてくれたから。まさにそういう暑い時期に、この愛称をつけてくれたんだ。

 それに “太陽”は、川崎を象徴する存在であり、僕が輝いて、チームやサポーターのことも照らすという。すごく強い言葉だ。

 振り返れば、多くのミスも犯してきたけど、いつでもベストを尽くしていた。だから、こうして覚えていてもらえることは、とても嬉しいよ。」

来日当初は、次男が生まれたばかりだったんですよね。その後、長男と2人、等々力で走り回る姿がかわいらしくて、マスコットみたいでした。

「お陰様で、2人とも元気で頑張っているよ。長男ルーカスは大学で理学療法を勉強しているんだ。僕と一緒にサッカーの世界で仕事をしたいと言っている。次男チアーゴは、医学の方に進むための学校で2年生だ。

 時々、写真を取り出して見ているんだ。僕は練習や試合の時、2人をよくピッチに連れていったから、僕やチームメイト、サポーターと一緒に撮った写真がたくさんあって、すごく笑えるよ。あの頃は2人とも小さくて、丸々とした子供達だった。そういうのを見ながら、日本にいた頃の思い出話を、家族でしているんだ。」

ジュニーニョ

中村憲剛引退に寄せて

あなたはケンゴの成長に寄り添ってきましたが、どんな風に彼を手助けしていましたか?

「9年間、一緒に成長したんだ。素晴らしい人間だし、きさくで、仲間意識が強い。練習が大好きな選手でもある。

 時に僕らは、若い選手に教えたいこともあるよね。でも、『はいはい、分かったよ』って言いながら、全然やってみようとしない選手もいる。そうすると、意思の疎通が取れない分、ミスに繋がる。ケンゴはそうじゃない。言われたことにトライして、学ぼうとしてくれた。

 また、少し強く言ったら、萎縮してしまう選手もいるけど、ケンゴは僕が厳しく要求しても、うまくいかない時も、俯くことはなかった。

 そうやって続けていく中で、僕らの息が合ってきたし、1つうまくいく度に、もっともっと、というふうになっていった。」

ジュニーニョ

ジュニーニョ

何を一番要求したんですか?

「フロンターレに入った時、当時のイシザキ(石﨑信弘)監督はパスワークが好きで、選手がボールを持ったら、パスを回させ、大事にするのが好きだったんだよね。だから、彼に言ったんだ。

『ザキ、僕は前を向いてプレーする選手なんだ。』

 そういう中で、僕がケンゴに要求したのは、ボールを持ったら前を向け、トライしろということ。彼のプレーを見て、僕が中盤にいて欲しいタイプの選手だと信じられたから。

 すごくすり合わせをした。ボールを受ける時、相手を背にして前を向けるならば、トラップしながら、もう前を向き始めろ、そして、ボールをフィットさせ、ゴール前へ走る僕に、そのボールを出してくれ、と。

 日本人選手達は、僕の動きに合わせてくれないこともあった。でも、出来ると思ったから、ケンゴにはそれをすごく要求したんだ。

 僕の方も、彼がボールを受けた時には、パスを出すべきスペースが分かるように動いた。そういう風にして、多くのゴールを決めたんだ。」

ジュニーニョ

フロンターレでの最後の試合でのこと。あなたはゴールを決めた後、ケンゴを抱きしめて、何か言っていました。何を話したか、覚えていますか?

「感謝の気持ちを伝えたよ。一緒に加入して、最初はすごく内気だったのに、その後は一緒に成長しながら、9年間を過ごすことが出来た。あの瞬間、いろいろなことがよみがえったんだ。僕らはピッチの中で、何度抱き合ってきたことか。だから、感情が込み上げた瞬間だった。」

今、そのケンゴも引退の時を迎えようとしています。

「もう1つ、タイトルを要求しよう(笑)。幸せなことに、彼はJ1優勝で現役生活を終えるんだけど、もう1つ、足りないタイトルがある。彼が築いた素晴らしい歴史を、天皇杯初優勝で締めくくって欲しい。僕はここから応援しているよ」

ジュニーニョ

ケンゴへ

「忠告しておくことがあるんだ。落ち着いていけよ、と。何がって?引退したら、奥さんと一緒にいられる時間が増える。すごく幸せだよ。で、その結果、僕には子供が2人増えた(笑)。だからそのへん、コントロールしないとね。

 まぁ、冗談はさておき(笑)、彼の大いなる幸せを願っている。彼がピッチの中で支えてきたこのクラブを、今度はピッチの外で、手助けしてくれるといいね。

 引退しても、このクラブのためにやれることがたくさんある。彼はフロンターレの歴史を築いた選手だから、その経験を若い選手達に伝えて欲しい。彼はクラブのシンボルだ。彼をお手本にしたい選手はたくさんいるはずだから。

 そうやって、フロンターレの新たな歴史を綴り始めてくれることを、心の底から願っているよ。」

ジュニーニョ

サポーターへ

「サポーターには、良い年越しを願っている。新型コロナのパンデミックによって、今年は誰にとっても、すごく厳しい1年になったけど、サポーターの1人1人に、神のご加護があるように。

 フロンターレのサポーターのことは、今でも深い愛情と共に脳裏によみがえるんだ。家族と遠く離れて悲しかった時も、ピッチに入れば、サポーターが愛情を注いでくれた。9年間、僕の人生における、すべての困難を乗り越えさせてくれたんだ。

 だから、彼らの幸せを願っている。そしてこれからも、もっともっと“イチバン”ね。フロンターレはもう日本のイチバンだけど、これからもずっとイチバンであり続けるように。心の底から、それを願っているよ。」

インタビュー:2020年12月1日、ブラジル・バイーア州 ジュニーニョの自宅にて

ジュニーニョ

Juninho’s Profile
ジュニーニョ"JUNINHO" Carlos Alberto Carvalho Dos Anjos Junior

2003年ブラジル・パルメイラスから川崎フロンターレに期限付き移籍。2004年には完全移籍しJ2得点王を獲得。2007年には31試合で22得点を挙げ、J1では初となる得点王に輝いた。J1・J2双方での得点王獲得はエメルソン以来2人目。

在籍時は、J2優勝、J1昇格への原動力としてクラブの躍進を支え「川崎の太陽」と称され、最年長選手となった2011シーズンまで衰えることの無いストライカーとしてファンを魅了し続けた。

中村憲剛自身、ジュニーニョを「自分を引き上げてくれた」恩人と語り、ケンゴ─ジュニーニョのホットラインはフロンターレ勝利の黄金パターンとして「等々力劇場」に定着していた。

2011年で契約満了した後、2012〜2013年は鹿島アントラーズでプレー。2013年の契約満了をもってブラジルに帰国。帰国後の2014年には、Jリーグおよび日本サッカー界の発展への貢献を認められ、Jリーグ功労選手賞を受賞した。

帰国後は、地元バイーア州にあるジュアゼイレンセでプレーし現役を引退、指導者としてのトレーニングを経て、現在はサッカースクールの運営にも携わる。少年や若手選手たちの指導にもあたり、トレーニングセンターの建設も進めている。

bg