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ピックアッププレイヤー 2024-vol.03 / FW38 神田奏真選手

ゴールで道を切り開くFW38 神田奏真選手

テキスト/いしかわ ごう 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Ishikawa Go photo by Ohori Suguru (Official)

2024年11月26日、タイ。

ACLエリートの第5節ブリーラム・ユナイテッド戦。気温28.0℃、湿度66%。
ブリーラム・スタジアムにいた神田奏真は、目の前のピッチで繰り広げられる光景を目に焼き付けながら、
プロデビューする瞬間を心待ちにしていた。

 自分が試合に出るという確信は、どこかであった。

 前日のトレーニングの途中で、スタメン組に入る機会があったからだ。練習で主力に入ることを告げられた際、本人は驚いた様子だったと鬼木達監督(当時)が明かしていたが、神田自身の心境はどうだったのだろうか。

「びっくりしましたね。今まで試合に絡めてなかったので、素直に驚きました。もちろん、ずっと準備してきていたし、もしかしたら・・・と思ってました」

 スコアは0-0の緊張感を保ったまま、時計の針は進んでいた。80分になろうかという時間帯、ベンチから神田は呼ばれている。

 少し鼓動が速くなった。

 ただ直後に三浦颯太が先制点を決めて試合が動いたことで、この交代は直前で見合わせられることとなる。気持ちを立て直し、再びウォーミングアップエリアに戻っていった。

「ベンチから『もうすぐ出る』と言われて呼ばれたのですが、点が入ったタイミングで『待とうか』という判断になりました。まだ時間があったので、試合が終わるまでは準備しておかないといけないと思っていましたね。いい準備をして、もし出たらいいプレーをできるようにと心がけていました」

 再び呼ばれたのは、1-0の試合終了間際だ。

 すでにアディショナルタイムに差し掛かっていたが、時間はまだ残っていた。エリソンと交代する形でタッチラインをまたいで、ついにピッチに足を踏み入れる。神田奏真にとっては、記念すべきプロデビューの瞬間だった。

 鬼木監督から受けていた指示は、前線からの守備をしっかりと遂行すること。さらに「点を取って来い」とハッパをかけられた。その若武者は、わずか数分後にその言葉を体現することになる。直後に遠野大弥の追加点が生まれると、さらにダメ押しゴールを自ら決めたのである。

 それは心がけていた積極的な守備から始まったものだ。

 早くボールを運ぼうとしていた相手のセンターバックであるカーティス・グッドのコントロールが、少しだけ大きくなる瞬間を見逃さなかった。素早く距離を詰めて突っかけて、ボールロストを誘った。密かに狙っていた守備だった。

「前プレ(前からのプレッシング)には行こうとは思ってたんですけど、相手がミスする前提では行ってませんでした。上手く蹴らせなければいいと思っていましたね。相手がミスをしたのが分かったので、その瞬間にスピードを上げていったら上手く入れ替わることが出来ました」

 高く跳ねあがって落下してきたボールを頭でコントロールして、ゴールに向かって突進していく。この時点で、残っている相手ディフェンダーは1人だけだった。後方からは山田新がスプリントを始めており、2対1の決定機である。

 アディショナルタイムに入っている時間帯だ。自分にシュートを打つチャンスが巡ってくるかどうかはわからない。強引にでもシュートを打ってデビューの爪痕を残したい。10代の若者であれば、そんな思考を巡らせてもおかしくなかったはずだ。

 だが神田奏真は冷静だった。

 自らシュートに持ち込む選択を選ばなかった。そのままゴール前に持ち運んで相手DFと対峙すると、フリーになっていた山田新への横パスを選択。ただそのパスは勢いが弱くなってしまった。

「ボールを奪ってからはシュートしか考えてなかったんですけど、相手のカバーが来るのが見えてました。左からはシンくんも結構なスピードで来てたんで、速いボールを出してもシュートも打てないし、ワンタッチで打てるぐらいで出そうかなって。でも、思ったよりもパスが緩くなってしまいました」

 必死に戻っていた相手のスライディングタックルに遭い、このパスは山田に合わせることが出来なかった。

 万事休すか。

 ところが、終わっていなかった。ボールは逆サイドまで流れていき、カウンターをサポートしていた遠野大弥の足元に転がっていたのだ。2点目を決めたばかりの遠野大弥は、そのまま中央に折り返す。シュート気味に放った軌道は、中央にいた山田新を狙って出したパスだったように見えた。

 だがスライディングタックルで転倒していた山田新はその場でうずくまったままだ。遠野のパスを中央でスルーした形になり、相手守備陣にもクリアされることなく、右サイドまで転がってきたのだ。そこに反応したのは神田奏真だった。

 「後ろからダイヤくんが来てくれていました。最初はそのまま流れると思っていたので、ダイヤくんが折り返しかシュートを狙ってるのを見た瞬間、『ワンチャンあるかな?』と思って、それで詰めていきました。ラッキーでしたね。当てるだけでした」

 まさに「決めてください」と言わんばかりのボールが巡ってきた神田は、楽々と左足で流し込んだ。そのまま遠野大弥に抱きつき、初々しく喜んでいる。先輩たちからは歓喜の祝福でもみくちゃにされた。ベンチにいたスタッフやメンバーも多いに沸いている。

 実は試合前にこんな予言を受けていたと本人は明かした。

「試合に出る前からいろんな人から『お前が点を取る』と言われていたので、そういう先輩たちの言葉で自信がついたっていうのもあります。良いチームメイトに出会えたと思いました」

 ルーキーとして、プロデビュー戦で初ゴールを決める。

 それも、説明できないような形で転がってきたボールを決めたものだった。俗な言い方だが、「持っている」としか言いようがないだろう。ただどんな形であれ、結果が出ると自信を持って、また次の結果を呼び込めるようになるのがストライカーでもある。

 自身に刻まれた初ゴールの意味を、本人はこう噛み締めた。

「とにかく点が嬉しかったです。それが、自分がサッカーをする意味だと思っているので」

 結果を出した若者は、帰国後に出場機会を掴んだ。

 ACLエリートの第6節・山東泰山戦では、84分から途中出場。等々力でのデビューを飾ると、河原創のパスに抜け出して、絶妙な折り返しで山田新のゴールをお膳立てし、初アシストを記録したのだ。

 続くリーグ最終節ではアディショナルタイムに出場。

 待望のJリーグデビューを果たしている。勝利後のロッカールームでは、川崎フロンターレでのラストゲームとなった指揮官から「よく成長したな」と声をかけられた。短い言葉だが、胸に熱く込み上げるものがあった。

 こうして神田奏真のルーキーイヤーは幕を閉じている。

FW38 神田奏真選手 FW38 神田奏真選手

 人生の、そしてサッカーの原体験は大阪にある。

 2005年12月29日、大阪市で生まれた。

 どんな地域だったのかを尋ねると、「楽しい感じのところ。大阪って感じです(笑)」と表情を崩して笑う。

 5歳年上の姉と、3歳年上の兄がいる3人兄弟の末っ子。

 3歳の誕生日に父親からサッカーボールをプレゼントされると、兄の通っていたサッカークラブである大阪東淀川FCに連れられるようになった。

 練習には入らず、外から様子を見て過ごしている子だった。まだ3歳である。別にサッカーがやりたいとも思わなかったのだろう。記憶はおぼろげだが、そうだったと家族から言われている。

 ただ小学校に入る頃には、休みの日も友達とサッカーをやって遊ぶ少年になっていた。そこからの記憶は鮮明だ。気づいた頃には、すっかりサッカーボールに夢中になっていた。

 大阪東淀川FCには、幼少期から中学まで所属した。

 地元では老舗のクラブで、OBには松村優太(鹿島アントラーズ)や名古新太郎(アビスパ福岡)といったJリーグで活躍している顔ぶれがいる。川崎フロンターレに在籍経験のある大塚翔平も、ここで育った後にガンバ大阪の育成組織に加入している。

 小学生時代はとにかく基礎的な技術全般を積み上げている。

 中でも思い出す練習といえば、ヘディング。決して背が高かったわけではなく、小学生時代のポジションもサイドハーフやボランチなど中盤だった。

 それでも、ヘディングの技術を磨くことを父親から口酸っぱく言われ続けていた。毎日のように取り組んでいたら、いつしか自分の武器になっていた。中学生の頃にはポジションもFWになっている。

 神田奏真をよく見ている方ならば、空中戦を支配するようなヘディングゴールを決めている彼の姿が思い浮かぶファンも多いかもしれない。年代別代表の国際試合でも、空中で溜めを作りながら頭でねじ込むゴールは印象的だ。高校選手権では野田裕人からのクロスを打点の高いヘディングから連続得点を決めている。

 滞空時間の長いあのヘディングゴールのコツは、どこにあるのだろうか。

「やっぱタイミングかな。ずっとヘディングを練習してて、どこで上がってどこに落ちてくるとかも感覚的にわかってきた感じがあります。あとは一番高いところで待っておくこと。『空中に止まっておけ』とはよく言われていました。ロナウドもそういう感覚でやってるんだっていうのは言われてたので」

 世界中のサッカー少年と同じように、憧れとして仰ぎ見た選手はクリスティアーノ・ロナウド。驚異的なボディバランスで、空中で止まっているようにも見えるヘディングゴールを量産してきた世界最高峰の男は、ジャンプした最高到達地点で合わせようとするのではなく、空中で待ってからヘディングシュートを放つ。

 神田奏真が磨いてきたヘディング技術も、それに近いイメージだった。彼が口にした「一番高いところで待っておく」という言葉は、まさにロナウドのそれだ。

 自分の武器を見出し、試行錯誤しながら答えを出していく。そうやって神田奏真は成長していった。

 中学まで大阪東淀川FCで過ごしたのち、高校は名門・静岡学園に進学。

 子供の頃からプロサッカー選手になる未来を描いていた神田奏真にとって、全国トップの環境に行くことが自分の選ぶべき道だと自然に思えた。

「コロナ禍だったので、進路も難しかったです。スカウトの方が関西に来てくれて一番先に静学から来ないかと誘われました。自分がプロになるということを考えたら個を伸ばすのも大事だと分かっていたので、それで静学にしましたね。プロになるために一番いい決断をしたと思ってます」

 とはいえ高校生で親元を離れるというのは、それほど簡単な決断ではなかったはずである。家族はどんな反応だったのだろうか。

 「父は『お前の好きなようにしろ』と言ってくれていました。母は親元を離れることには心配していましたが、最終的には応援してくれましたね」

 こうして静岡学園の門を叩いた。

 全国屈指の名門ということもあり、もともと部員は多い。しかも神田が入学した年は全国高校サッカー選手権で優勝した影響で、新入部員だけで100人を超えていた。寮生活が始まり、切磋琢磨していく中で彼はいかに埋もれずに生き抜いていったのか。

 その生きる道は、やはりゴールだった。

 1年生が出場できるルーキーリーグでゴールを量産した。その活躍により、コーチ陣に評価され、1年生ながらAチーム入りを果たしている。中学でFWになっていた彼は、ストライカーらしく、ゴールで自らの道を切り開いていった。

「ルーキーリーグで点が多く取れたのは、チームメイトがうまかったっていうのもありましたし、パスがたくさん出てきてというのもありました。FWをやってからは、点を取るのが自分のサッカーをする生き甲斐になっていましたね。やっぱり点を取れることが一番嬉しい。自分にとって、一番の幸せを感じる部分でもあります」

 テクニックを磨ける環境に身を置き、ドリブルの多い静学の練習メニューにも必死に食らいついた。1年時にはU-16日本代表候補へ初招集されている。さらに守備の意識も高めるようになると、2年時からはレギュラーで出場することが多くなる。ただ出場したプレミアリーグではゴールが奪えず、思い悩む時期も過ごしている。

 自分を見つめ直しているときに声をかけてくれたのが齊藤興龍コーチだった。神田はクラブ公式のQ&Aコーナーの「影響を受けた指導者」に齊藤の名前を挙げている。

「人間性を大事にしてくれていたので、そういうところからやり直しました。普段の挨拶もそうですし、言葉使いもそうですね。齊藤先生が声をかけてくれたので、それで自分にとって楽になりました。人間性で言ったら、僕にとって完璧な人なのかなって思うぐらいです」

 選手としてだけではなく、人間としての芯も太くしながら成長を遂げていった。そして再び得点も重ね始めていく。

 そんな3年の夏、川崎フロンターレからオファーが届く。

 それまでプロからの誘いがなかったこともあり、高校卒業後は大学進学を考えていたという。幼い頃からプロサッカー選手を目指していた神田からすると、Jリーグの、それもJ1リーグのクラブから誘いが来るのは願ってもない話だった。

「プロからはまだ声をかけてもらっていなかったのと、その時は大学の練習に行きたいと思っていました。大学に行こうとしていたタイミングで、フロンターレが声をかけてくれました。びっくりしましたね。まさかオファーが来ると思っていなかったので、すぐ行きたいと思いました」

  強化部でスカウトを担当している向島建と初めて会話を交わしたのも、3年の夏だった。当時のことをこう回想する。

「夏のインターハイ前の高地トレーニングに向島さんが来てくれたのですが、それが最初だったと思います。フロンターレの印象を聞かれましたね。その時、僕が知っているフロンターレは最強のイメージだったので、『最強のチームだと思います』と答えたと思います」

 神田に対する向島の評価は高い。

 例えば翌年の新体制発表会見の場では、多くのサポーターを前にこんな太鼓判を押したほどだ。

「どんな形でもゴールが取れるストライカー。特にクロスからのヘディングは抜群。ボールを引き込めるし、身体能力もある。日本人でも嘉人や悠が得点王になりましたが、そういう選手になりうると思います」

 8月には川崎フロンターレの練習参加も経験している。

 3日間だけの参加だったが、環境面を含めてトッププロとの練習に大きな刺激を受けている。

 「高校にはクラブハウスがないし、筋トレするところもなかったので、すごい施設だなって思いました。チームが試合前だったのでゲームに入れなかったですけど、端っこでパスと止めることを一緒にやっただけで、パススピードもあるし、レベルの高さを感じました。FWには悠さんがいたし、シンくん(山田新)もいたし、バフェ(バフェティンビ・ゴミス)もいて見習うべき人もたくさんいた。ここなら成長できると思いました」

 実はその3年の夏、神田奏真は手術を決断している。

 痛みに耐え続けてきた両足が、ついに限界を超えてしまったのだ。1年時から抱えていた左足の甲の痛みに加え、右足の同じ箇所にも痛みが出てしまい、それが耐え難いものとなっていた。

「夏のインターハイ前ぐらいからですね。もともと左足は折れてて、でも痛みもなくなってきたので慣れでやっていたのですが、今度は右足が痛くなってきて…」

 診断は両足とも疲労骨折だった。

 メスを入れるかどうかの判断を迫られたが、8月はSBSカップ国際ユースサッカーのU-18日本代表メンバーに選出されていたこと、そして川崎フロンターレから練習参加に誘われていることもあり、すぐには手術を選択しなかった。

 ただ痛みは、とっくに我慢できないものになっていた。

 問題は、いつ手術をするかのタイミングだった。高校生活で控えていた大きな大会は、その集大成とも言える高校サッカー選手権だ。

 手術後のリハビリに約3ヶ月ほどかかるため、もし、いま手術をすれば県予選の出場を見合わせることになる。全国大会には間に合うが、静学といえど、激戦区である静岡の予選を突破できる保証はない。これまで戦ってきたチームに迷惑がかかることになり、自分が出場することなく高校生活最後の大会が幕を閉じるかもしれない。

 一方で、もし高校選手権を優先すれば、手術は年明けに行うことになるだろう。そうなると、川崎フロンターレで始まるプロ生活はリハビリからスタートすることになる。これも大きな出遅れだ。

 迷った末に川口修監督に相談すると、すぐに手術することを勧められた。ここでサッカー人生が終わりではないこと。このままでは怪我がひどくなる可能性もあることなど、将来を考えた温かい言葉をかけてもらった。そして夏に手術を決断した。

「迷っていたのですが、川口先生から『その後の人生のこともちゃんと考えたのか?』って言われたのは大きかったです。今すぐに手術をすれば全国には間に合うし、このチームなら行くだろうと信じてました。とにかく自分にできることをやる。信じて応援しましたね」

 手術後の神田奏真はリハビリに励み、復帰に向けて黙々と取り組んでいた。そして県予選では、ベンチ入りしていない仲間と共に、応援席で声を張り上げた。その甲斐もあり、静岡学園は見事に全国大会の切符を掴んでいる。

 11月末には復帰。年末から始まった高校選手権では、自身の誕生日である12月29日の試合となった明徳義塾高校戦で豪快なヘディング弾で連続ゴールを記録し、ストライカーとしての得点力を世間に示した。大会は残念ながら2回戦でPK戦の末に敗れてしまったが、すぐにプロ生活が始まっている。

 2024年、1月20日。

 新体制発表会見に学生服で登壇すると、「サポーターの皆さん、こんにちは!」と挨拶し、初々しく語った。

「静岡学園から来ました神田奏真です。小さい頃からの夢だったサッカー選手になることを、この川崎フロンターレという素晴らしいクラブで迎えられたことを大変うれしく思います。少しでも早く等々力のピッチで自分の特徴である点を取るというところをサポーターの皆さんに見せたいと思っています。応援よろしくお願いします」

 プロになって感じたのは、サッカーだけに集中できる環境になっていることだ。幼い頃からプロになることを目標にしてきた神田奏真にとって、サッカーに全てを注げる日常はたまらない幸せだった。

 もちろん、過酷な競争もある。

 サッカーで生き抜いてきた先輩たちのレベルは高く、その差が歴然であることを練習から目の当たりにした。ただ、それでも神田奏真の心が折れることはない。

「このレベルでやっていけたら、自分ももっと上に行けるっていう風に思ってやっていました」と向上心と負けん気の強さで、日々のトレーニングに取り組んでいった。

 トップチームの試合での出番はなかなかなかったが、年代別代表ではコンスタントに呼ばれ主力として出続けている。この年の夏にはパリオリンピックが開催されたが、U-23日本代表のトレーニングパートナーの5名に選ばれるなど、ロサンゼルスオリンピック世代としての期待も背負っている。

「レベルの高い選手がたくさんいる中で出来ましたし、代表があって試合ができたっていうのは良かったです。クラブでは出てないですが、代表で活躍すればアピールになる機会だと思ってます」

 プロになってからの積み重ねは身体にも現れている。

 体重は高校時代の72kgから3.5kgほど増えた。地道に取り組んできたフィジカルトレーニングによるもので、上半身を中心に鍛えて増えたものだ。強度で負けないように、簡単には当たり負けしない鋼鉄の身体を着実に作り上げている。かといって、スピードを落とさないことも心がけて取り組んだ。

 身近なモデルは同じポジションの山田新であるが、体型もプレースタイルも違う。神田奏真は神田奏真であって山田新ではない。そこは自分なりに試行錯誤しながら作り上げていると明かす。

「体重があってもあれぐらい速いのがベストですよね。でも、シンくんとは同じ体ではないので。体重を増やして動けなくなっても良くないので、そこは試しながら考えながらやっています」

 フィジカルで上回ることがゴール前でアドバンテージになることは確かだが、ストライカーはそれだけで勝負するわけではない。ゴール前では色々な駆け引きでゴールも奪うことができる。そこにも、このクラブには最高の教材がいる。小林悠である。相手を外す動きからのフィニッシュワークは絶品だ。

 「シンくん(山田新)のようにフィジカルは積み重ねていかないといけないけど、意識できる動きはユウさんを参考にしたりと、学べる状況でもあります」

 そしてもう1人。

 この年の9月、クラブを退団し、のちに現役引退を発表したバフェティンビ・ゴミスは、神田奏真の才能を高く評価している存在だった。

 退団会見の場でこんな期待を込めてエールを送っていた。

「今はシンに出場機会が与えられて、ソウマにはなかなか出場機会がありませんが、今、芽が出なくても、チャンスはきっと来ます。それは明日かもしれませんし、もしくはその次かもしれません。必ずチャンスが来ると信じて、この成長を続けていってほしい。ソウマがいつか大事な場面で重要なゴールを決める日が必ず来ると信じています」

 ゴミスの会見は9月27日だった。

 その2ヶ月後の11月26日、この予言は早くも実現し、デビューを飾った神田奏真は異国の地でいきなりゴールを決めてみせた。それが本文冒頭のゲームである。その後、ゴミスのチャントは神田奏真に引き継がれることとなっている。

 先輩たちに学びながら、麻生グラウンドで研鑽を積む。そして試合でゴールを決めることにこだわり続ける。そうした日々を積み重ねていくサイクルが、プロとしての神田奏真を作っている。

 2025年が始まった。

 自身の大きな変化といえば、背中につける番号が32から38に変わったことだ。

 キャリアと共に番号は若くなるのが一般的だが、2年目はあえてこの番号をリクエストした。理由を聞くと、小学生時代に過ごした東淀川FCで兄がつけていた番号を譲り受けたときからつけている、思い入れの深い番号だという。

 「小学生の頃、3つ上の兄が卒業するタイミングでもらった番号が38でした。中1と小4で入れ替わるので、その番号をもらったんです。去年も付けたかったのですが、ACLエリートの関係で付けることができなかったので今年は38にしました」

 慣れ親しんだ番号を背中に纏い、新たな指揮官とのシーズンの戦いが始まる。

 2月にはチームを離脱し、U-20日本代表メンバーとしてAFC U20アジアカップ中国2025に参加することが発表されている。去年はクラブでの出場がほぼなかったため、代表の試合に力を注げる環境だったが、今年はクラブと代表の両輪での活躍が求められる。タフなシーズンになることも予想されるが、その競争に挑む覚悟はできている。

「自分の長所を生かしたプレーをして、アピールしていくこと。そして出た試合で結果を残すことが1番大事だと思うので、そこを目指してやっていきたい」

 ゴールという結果で、自分の存在意義を示し、道を切り開いていく。

 その思いは、これまでも、これからも、ずっと変わらない。

 神田奏真のプロ2年目の幕が上がった。

〜追記〜

 今年3月。

 2月に開催されていたAFC U20アジアカップ中国2025の戦いを終えた神田奏真に話を聞いた。

 U-20日本代表は、4大会連続12度目のU-20ワールドカップ出場権を見事に獲得している。ただ準決勝ではU-20オーストラリア代表に敗れ、ベスト4で敗退。アジア王者に輝くことは出来なかった。

 だから、だろう。

「最低限の目標を達成できたのは良かったと思います」と述べつつも、大会を振り返る神田の表情にも満足感はなかった。チームとの兼ね合いもあり、大会途中からの合流となった影響もあるだろうが、自身のゴールもグループステージ最終節のU-20韓国代表戦で記録した1得点にとどまった。「悔しかったですね」と、ストライカーとしての感情も素直に吐露している。

「日の丸を背負いましたし、なかなかできない経験ができたのはいい経験です。でも、その分、もっとやらないといけないと思いました」

 大会を振り返ると、最初に出場したのは第2節でのU-20シリア代表戦だった。

 1-2とリードを許している展開で後半から出場。「普段と変わらない。やるべきことをやろう」とゴールを奪うことに専念していると、後半28分に絶好機が訪れた。

 右サイドからグラウンダーのクロスに、ゴール前に飛び込んでいたのは神田。ダイレクトで丁寧に合わせたシュートが決まったかに見えたが、俊敏な反応を見せた相手GKに阻まれてゴールマウスを逸れていった。

 本人が「入ったと思ったんですけど」と振り返るこの決定機。

 実は、今季からチームに加入した大黒将志コーチからの教えが生きたものだったと明かす。「常にゴールを狙えるポジションにいることと、動き出しの部分」をレクチャーされていた神田にとって、狙い通りの形だったからだ。

「大黒コーチからは『自分の頭の上を超えた時にゴールを狙える位置にいたらボールは来る』と言われていました。あのシーンが、まさにそれでしたね。ただボールに当てるだけになってしまった。決めないといけなかったですね。同じようなボールを狙うこともあるので、もっとGKを見て狙うことをやっていかないといけない」

 それでも試合終盤には、ゴール前の浮き球を収めながら、そのこぼれ球を味方が決めた。劇的同点弾の起点を担う仕事は果たしている。

 そして続く最終節のU-20韓国代表戦ではスタメン出場。

 前半28分に待望のゴールも記録した。左サイドからの鋭いクロスを相手GKがこぼし、そのボールを押し込んだ。逃さずにしっかりと詰めていたのは習慣によるものだと胸を張る。

「チームとして狙っていたので、あそこに入るのは意識していました。ボール的に難しいので、GKはこぼす可能性があると思っていました。たまたま当たった感じですが、シュートを打った後に、反応するのは意識づけていたので、それが自然と出たのかなと思います」

 グループステージを突破し、準々決勝では120分の死闘を戦い、PK戦の末にU-20イラン代表を下した。自身の得点は生まれなかったが、本大会の出場切符を獲得した。

「とにかく勝ちたかったので。どんな勝ち方でも勝ちは勝ちだと思ってます。終わった後、みんなで喜びあえたのは良かった。実感はありましたが、そこで終わりではないので、次に切り替えました」

 帰国後は、川崎フロンターレでの競争に身を置きながら、研鑽の日々が続いている。

 出場機会が得られていないのは不本意だろうが、シーズンはまだ始まったばかり。自分にベクトルを向け続けながら、シンプルな思いを口にした。

「点を取ることですね。人がどうこうではなく、自分がやるだけなので。チャンスが来た時に自分がどうできるかが大事。試合に出た時に活躍しないといけないですし、そこは変わらずやっていきたい」

 2025 FIFA U-20ワールドカップは、約半年後の今年9月に開催される。

 頂点の景色も、最高の景色も、まだ知らない。19歳のストライカーは、ゴールで道を切り開いていくことだけをイメージしながら走り始めている。

profile
[かんだ・そうま]

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どんな形からでも得点がとれ、特にクロスからのヘディングシュートは抜群だ。さらに高い身体能力も兼ね備えていることを考えると次世代のストライカー候補の一人と言えるだろう。

2005年12月29日、大阪府大阪市生まれニックネーム:そうま

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