ケンゴとの思い出、贈ることば
長い間、そのプレーや人間性で私たちを魅了してくれたケンゴの引退に、誰もが胸がいっぱいになるような気持ちになった事でしょう。
そんなケンゴのことをよく知る、お世話になった方々や仲間たちから、たくさんの「贈ることば」が届きました。
※皆様からのメッセージは2020年12月より順次頂戴し、頂いた時点での内容で掲載させ ていただいております。この場を借りて、ご協力いただいた皆様、ご尽力いただいた関 係各所の皆様に御礼申し上げます。
*文中敬称略
お世話になった歴代監督の皆様から
- 石崎信弘
- いしざき・のぶひろ
- Ishizaki Nobuhiro
- 2003年、中村憲剛新加入時の監督としてルーキーイヤーを指導した。
- 2021シーズンは、カターレ富山監督に就任。
ケンゴの現役引退を最初に聞いたとき、怪我が治って復帰してからいきなり点を取りましたし、そのあとも普通にプレーしてバースデーゴールも決めていたので、まだ早いんじゃないのかな、まだできるんじゃないかなと思ったのが正直なところです。ただ、これは彼が決めたことですから、彼なりの理由があるんだと思います。
2003年、ケンゴはプロ1年目のときから技術的にしっかりしていて、ゲームのなかでたくさんアイディアを持っていました。たぶんワシ、ほとんどの試合で使ってるんじゃないですかね。開幕戦のサンフレッチェ戦も途中から出てますから。
人間的にはすごく真面目で、素直な好青年というイメージがあります。わからないことがあれば質問してくるし、積極的にトレーニングに取り組んでいて、彼の性格がそのままプレーに出ている感じでした。プロ1年目のときから可能性を感じましたし、彼の努力があったからこそ代表に入るまで上り詰めることができたんだと思います。決して体が大きいわけでもなくですが、いろいろ経験しながら細い体でプロや代表で戦える対応の仕方を覚えていったんじゃないかなと。
去年ですかね。藤枝MYFCの監督としてフロンターレと練習試合をやったときはケンゴは出ていなかったので会えませんでしたが、2年前フロンターレが綾町でキャンプをしていたときにケンゴと会いました。だいぶ年齢を重ねましたが、僕の前ではおとなしい好青年のケンゴでした。ワシの前では猫をかぶっているのかもしれませんが。
現役引退を発表したケンゴには、18年間ですか、40歳までおつかれさまと言いたいです。あと、おそらくこれからもサッカーに関わっていくと思うので、第2、第3の中村憲剛を育てていってほしいなと思います。鬼木をはじめ今のフロンターには一緒にプレーした指導者がたくさんいますし、いい選手を育ててもらいたいですし、日本を代表するような指導者になってもらいたいと思います。
- 関塚 隆
- せきづか・たかし
- Sekizuka Takashi
- 2004年、クラブをJ1昇格に導き、中村憲剛をボランチにコンバートした元監督。
ケンゴから現役を引退するという話を聞いて、自分の心で決めたことですし、私としては18年間おつかれさまでしたという気持ちです。
私が監督に就任したときケンゴはプロ2年目でしたが、線は細いけどサッカー選手としてのセンスあふれる選手だなと。これからの川崎を担っていくだけのポテンシャルを持った選手という印象でした。キャラクターとしては若いときは周りに対しての要求が高くてトゲトゲしたところもありましたが(笑)、キャプテンを伊藤宏樹に任せてプレーでチームを引っ張ってもらいたいという思いがありました。
彼自身はピッチの中の監督としての資質が高くて、オフェンシブからボランチにポジションを下げることによって、チーム全体をコントロールできる彼の資質が非常に出たんじゃないかなと思います。私が監督の頃はジュニーニョや我那覇、テセ、黒津といったいいFWがいましたし、彼はゴールに直結するパスで成功体験をしてプレースタイルを確立できた。それは彼の大きな財産だと思います。彼がボランチに下がったことで仲間との関係性を作れたのが、彼が長く現役でプレーできた要素じゃないかなと。
彼自身、日本代表でも点を取ったらみんなで喜ぼうとリードしたり、周りとの関係が作れる人間性を持っていました。備え持ったプレーで自信をつけて、人間的に持っていたものも表現できるようになっていったんだと思います。
彼がサッカーとまっすぐ向き合って、同時に川崎の町に愛されるクラブになろうとオフザピッチでも頑張り続けて、その結果としてJリーグMVPを受賞し、クラブとしてのタイトルを獲得しました。川崎フロンターレが川崎市、そして全国的にここまで有名なクラブになる一翼を担っていたのは間違いありません。サッカー好きの子どもたちに、あれだけ細身でも代表になれるんだって夢を持たせてくれたと思います。
今後彼がどうなっていくのか、次のステップにすごく期待していますし、私としてはいつか川崎の指揮をとっているケンゴを見たいと思っています。
- 高畠 勉
- たかはた・つとむ
- Takahata Tsutomu
- 富士通川崎時代からクラブに携わり、長年ヘッドコーチを務め、2008年4月~、及び2010年には監督を務めた。
- 現 広州恒大U-17ユースチーム監督
最初にケンゴの現役引退を聞いたとき、「えー、今なの」っていうのが率直な感想やなぁ~。去年あんな大怪我して、復活して、復帰戦ですぐ点を取って、しかも怪我した方の左足でや、すぐ「さすがやなー」っていうメッセージをケンゴに送ったんやわ。
ケンゴはフロンターレのバンディエラやっけ、フロンターレの象徴、存在そのものやんな!フロンターレがなかなか勝てなかった時期に入団して、J1に上がって強いチームと言われるまでになって、でも優勝はなかなかでけへんで、ずっと苦労して最終的にタイトルを獲った。ケンゴはまさしく川崎フロンターレというクラブそのものやんな。
ずっとJ1にいて、いつか優勝というテーマでクラブを立ち上げて、歴代監督、イシさん(石崎信弘氏)がチームを強くしてくれて、セキさん(関塚隆氏)が来て勝てるチームに仕上げてくれて、タイトルをつかめそうでつかめへんかったけど、自然と攻撃的なサッカーが確立されていった感じで俺、相馬を経て、ヤヒロさん(風間八宏氏)が来て、さらに攻撃を突き詰めたパスサッカーでケンゴもさらに伸びて、オニ(鬼木達)が常勝軍団に仕立て上げて、もう星が5個やで。クラブの成長とケンゴの成長がリンクしてた感じやんな!
最近ケンゴの記事をいろいろ読んでて「35歳の誕生日の時に40歳で引退する」って決めていたっていうのもさすがやし、今回こういう形(40歳のバースデーゴールを決めた翌日)で引退発表したのもさすがやなーと。ケンゴらしいというか、そういう星のもとに生まれたのか、すごい影響力のある存在になったんやなって。本当に感慨深いというか、改めてケンゴのすごさを思い知らされたというか。うーんって唸ることばっかりやったんやわ。
ケンゴに言いたいのは、まずは月並みやけど「現役生活おつかれさん!」それからケンゴがこれからどういう道に進むんかな〜というのは一番興味あるわな。永遠のサッカー小僧のケンゴがスパイクを脱いで、これから大好きなサッカーとどう関わっていくのか、めっちゃ愉しみで興味を持ってるわって感じで、「新しい舞台での活躍を期待してます!」
まぁ~ケンゴのことやで、どうするにしても成功するやろうけどな。またゆっくり話をするのを愉しみにしてるわ。いや〜ホンマようここまで成長して大したもんやで、こんな絶頂期でやめるのなんて今までないやろ~今までのサッカー界にない引退の仕方、潔いというかカッコいいというか。存在自体もそうやけど、最近のアップの写真を見て顔もカッコよくなって、昔と比べるとかなり男前になったわなぁ~。
- 相馬直樹
- そうま・なおき
- Soma Naoki
- 中村憲剛とは現役時代も同じポジションであるボランチを務めた。2011年~2012年4月まで監督を務めた。
ケンゴの今シーズン限りの引退という話を聞いて、まずは「おつかれさまでした」という気持ちです。あとはやはり改めてすごい選手だなと思います。
僕が選手として川崎フロンターレに行くことが決まった2004年。その前の年の川崎の試合映像を観ていて「この選手、誰だ?」という感じで、26番の選手に目が行きました。当時ジュニーニョといったインパクトのある選手がいましたが、目が行った選手だけ流れている時間が違っているような印象でした。それがプロ1年目で最初に26番をつけていたケンゴでした。ちょうど僕が川崎に入ったタイミングで一緒にボランチをやりはじめて、ケンゴの技術の高さを感じました。ケンゴはものすごく吸収力があって、どんどん伸びていった時期だと思います。
彼も35歳を過ぎたあたりからいろいろ考えるところがあったと思いますが、なかなか届かなかったタイトルを手にできるようになって、もう一段成長したんじゃないかなと。「自分は勝てない星じゃないか」と何かのコメントで見ましたが、その星を引き寄せられたのは35歳で現役は40歳までと決めたからかもしれないですし、悠にキャプテンを任せて自分が背負いすぎていたものを少し下ろせたからかもしれません。いずれにしても本人の中で何かがあったんじゃないかなと。そこは逆にケンゴに聞いてみたいところです。
彼が現役引退を発表したあと鹿島で対戦があったんですが、そのときは顔を合わせるタイミングがなくて声をかけられませんでした。今伝えたいのは、冒頭にも述べたように「おつかれさま」という言葉。現役生活18年のほとんどの時間でクラブを背負ってきて、計り知れない苦労があったと思います。結果が出るときも出ないときも自分で受け止めてきたので、そういう意味でも「おつかれさま」という気持ちです。あともうひとつは「ありがとう」です。僕も選手として、監督として在籍したフロンターレがタイトルを獲ったことはすごく嬉しいですし、クラブに関わってきた方々たちが目指してきたものを成し遂げてくれました。ケンゴがその中心だと思うので、改めて「ありがとう」という言葉を伝えたいと思います。
- 風間八宏
- かざま・やひろ
- Kazama Yahiro
- 2012年4月~2016年クラブの監督を務める。
- 2021年より一般社団法人セレッソ大阪スポーツクラブ技術委員長に就任
ケンゴの現役引退の話を聞いて、ケンゴらしいなと思いました。ケンゴは自分自身にものすごく厳しくて、つねに100%を求める人間なので。周りにはわからなくても自分のなかではつねに100を求めている。そのサッカー人生もそうですが、1試合1試合全部そうなので、100納得しなければやらないというのはケンゴらしいなと思いました。
私がフロンターレの監督に就任したばかりのケンゴは、簡単にいうと周りを気にして本当の力を出していないんだなと感じました。もちろん彼がこのチームを引っ張らなきゃいけない、引っ張ってもらわなければ困るという立場だったんですが、チームのことを考えずもっと大胆に、とにかく自分の力を出すことを考えてほしいと言ったことを憶えています。
そして彼が殻を破ることで周りの選手もがらりと変わっていって、チーム全体がどんどん変わっていきました。自分のプレーを追求したときには当然、要求が出てくる。それを最初は周りに合わせながらやってくれていたんですが、途中から変わってきて同じ要求でも「こうしろよ。俺がこうするから」といったぐらい自分を出しはじめた。そこからチームも変わったし、ケンゴ自身も力強い選手になって、改めて彼の本当の能力はすごく高いんだなと感じました。
いつもチームのど真ん中にいて、このチームがものすごく好きで、周りのことをものすごく気にかける。だからフロンターレがこれだけひとつになってやってこられたんだと思います。ケンゴがやってきたことは、おそらく日本でも前例がないことじゃないかなと。ずっとクラブの中心にいて、これだけクラブと一緒に成長できた選手が果たしてどれだけいるんだろうかと思います。
最後はちょっと怪我をしてしまったけれど、40歳までほとんど大きな怪我をせず楽しそうにプレーして伸び続ける。なおかつチームがどんどんいい方向に向かっていく。40歳までこれだけサッカーを突き詰めて、楽しめた。そこはもう誰も味わったことがないことだと思います。
これからのケンゴが何をするのか。いろいろなことができるでしょうが、楽しさを忘れず、ケンゴらしく、のびのびやってもらいたいと思います。
- 鬼木 達
- おにき・とおる
- Oniki Toru
- 中村憲剛プロ入り時のチームのキャプテン。監督就任後、クラブを史上初のタイトル獲得に導いた。
- 現 川崎フロンターレ監督(2017年~)
ケンゴとは僕の現役時代もコーチ時代も一緒だったので、彼の強さも弱さも分かった上で素の状態で話ができました。監督と選手の関係からスタートしていたら、もしかするとお互いに構えてしまうこともあったかもしれません。今は監督と選手という間柄ではありますが、長年一緒にやってきたというのは僕たちの強みだと思います。
これから先、ケンゴのようにひとつのチームでこれだけ長くプレーする選手は出てこないんじゃないかなと思っています。来年から選手としてチームを支える形ではなくなりますが、ケンゴのフロンターレ愛は変わらないと思うので、クラブの仲間としてフロンターレと成長してもらいたいと思います。あとは日本サッカーの発展のためにも、いろいろな形で尽力してもらいたいです。
改めていうのもなんですが、まずはおつかれさま。そしてありがとう。このチームをずっと愛し続けてくれましたし、もちろん彼1人の力ではないですが、ケンゴとともにクラブも成長曲線を描いてきた側面はあると思います。
そしてこれからは「中村憲剛」のイメージにとらわれすぎず、自分が好きなこと、やってみたいことにどんどんチャレンジして欲しいです。来年から違う世界に飛び込むわけですから、これからいろいろな刺激を受けると思います。新しいフィールドでも中村憲剛らしく進化してほしいなと思っています。
学生時代の恩師の皆様から
- 高山 清
- たかやま・きよし
- Takayama Kiyoshi
- 府ロクSC総監督
小学1年から府ロクSCでサッカーを始めたケンゴの印象は、とにかく負けず嫌いでした。試合に負けると、握りこぶしを作って地面を叩いて悔しがっていました。彼は中心選手でしたから、うまくいかないプレーがあれば、自分に対しても悔しがる。それだけじゃなく、子どもの頃は、チームメイトが失敗した時も、厳しいことを言ってしまう一面がありました。それは、ケンゴに限ったことだけでなく、上手な選手にはよくありがちな傾向でした。
それを見ていたお父さんが、お風呂の時間に、叱ったそうです。仲間を大切にし、友だちへ思いやりを持つことを伝えた、と。
もうひとり、彼を指導していた箕輪さんのおかげもあったでしょう。彼は、ケンゴを含めて子どもたちに「味方の失敗には、“ドントマインド”と言うんだよ」と教えていました。悔しさを相手にぶつけてしまうことをどう子どもなりに合理化するか──。
「ドンマイ」。
ケンゴも少しずつそれが言えるようになり、悔しさをプラスに変えていくことを覚えていきました。
彼はプロになってからも、シルバーコレクターと言われ、決勝で負けたり、あと一歩という悔しい経験を数多くしてきました。
それを乗り越えるには忍耐が必要だし、きっと悔しさを大きなエネルギーに変えていたのだと思います。
府ロクで中心選手だったケンゴは、小5で1学年上の代に混ざり全国大会にも出場しました。飛びぬけてうまかったのは、絶え間ない練習、たくさんボールに触った経験から培ったものです。ボールコントロールがうまく、ファーストタッチで次をどうすればいいか瞬時に判断し、ボールの置き場所も考え、細かいステップで動く。動きながらのボールコントロールの良さはピカイチでした。
東京都の選抜にも選ばれたケンゴは、関東トレセンにも選ばれましたが、16人の中で一番体が小さく、そこでは大きく、技術もある選手たちに圧倒され、打ちひしがれて帰ってきました。そういう悔しい経験も、彼の原動力になったのではないかと思います。体力のハンデを乗り越えて、負けない精神力が今まで続く成長につながったのだと思います。
とにかく、マイナスに向かわないのが彼のいいところです。喜怒哀楽の人間の感情の中で、喜びも大きいけど、悔しさも大きい。それを負ではなく、プラスに持っていく。そして、天性の彼のポジティブさや周りから愛される性格もあり、今のケンゴが形成されていったのでしょう。
まだ現役選手としてプレーできるとは思いますが、いい時に引退することを決めたと思います。選手としては引退しますが、これからの人生も楽しみです。ケンゴが率いるチームがみてみたいし、指導者としてこれまでたくさんの人たちと関わり彼自身が成長してきたことを活かし、やっていただきたい。
- 山口隆文
- やまぐち・たかふみ
- Yamaguchi Takafumi
- 都立久留米高校サッカー部時代の監督で、高1と3年時には担任としてお世話になった。
- 現 JFAアカデミー 女子統括ダイレクター/女子チーフ/女子U18監督
都立久留米高校時代、1年と3年の時の担任であり、サッカー部の監督として3年間を憲剛と共に過ごしました。
入学直後のホームルームで、華奢で猫背で目が大きい子がいて、その子がサッカーをするとボール扱いが抜群に上手かった。それが、15歳の憲剛でした。
私は監督としてサッカーのセオリーや判断基準を示し、チームとしての方向性を示唆しました。そこから先の細かいプレーについては、「自分で考えろ」と伝えていました。憲剛は、ボールコントロール、キックなどの技術のベースは既に持っており、状況に応じた判断力を持ち、それを実行することも出来ていました。理解力も高く、私が言ったことを実践しようと、常に努力をしていたと思います。
入学時にお母さんとの面談がありました。彼のご両親は、子どもに過干渉することなく、「自分で決めなさい」と子どもに任せるというスタンスだったので、そうした家庭環境で育てられたんだなということが、すぐにこちらに伝わるぐらい15歳にしてすでに自立した考えを持っている雰囲気を醸し出している少年でした。成績もよかったし、サッカーも一生懸命やり、一切手がかかりませんでした。
高校3年の選手権東京都予選を戦っている最中に、「大学でもサッカーを続けたい。どこの大学がいいですか?」と憲剛が私に相談をしてきた時、関東大学1部リーグの大学を探しなさいと言って、彼が調べて、なおかつ試験がまだ受けられるタイミングだったのが中央大学でした。
私は、彼なら十分にやれると自信がありましたので、背中を押して送り出しました。しかしながら、当時の憲剛は、私の前でプロになりたいとは言ったことはありませんでした。もしかしたら内に秘めていたのかもしれませんし、公言するだけの自信もまだなかったのでしょう。
憲剛のようにサッカーが大好きな子を育んでいける環境、家庭での教育のあり方、クラブとして指導の在り方、自分で考えさせるアプローチをする大切さ──。彼を通して私も指導者として改めてその重要性に気づかされました。
将来、憲剛にはフロンターレや日本代表の監督になってほしいです。そのためにこれからライセンスの取得など指導者になるための勉強もすることになるでしょうが、まずは周囲に甘やかされすぎず、厳しさも経験しながら、地に足をつけてやっていってほしい。そして、いつの日か、彼が等々力で指導者として再びフロンターレのチャンピオンになることを、みんなが夢見ることでしょう。
憲剛、長い選手生活お疲れ様でした。
プロ選手として18年間、本当によくやったと思います。
長い間には顎を骨折したり、前十字靭帯断裂など怪我もありましたが、それを乗り越えてきました。
私の予想以上にこんなにも活躍してくれましたが、こういう選手が生まれたこと、そして私自身、君に関われたことに感謝しています。
- 佐藤 健
- さとう・けん
- Sato Ken
- 中村憲剛大学4年の時に中央大学コーチに就任、その後、監督を務める。
- 現 中央大学サッカー部監督
ケンゴが4年の時に中央大学サッカー部のコーチに就任し、それから長いつきあいになりました。
今では、家族のような関係性です。
大学4年になった春、面談をした時に、ケンゴから「プロになりたい」という気持ちを聞き、同郷だったフロンターレの庄子春男さんを思い出し、電話をしました。ちょうど日韓ワールドカップ期間中に2日間練習参加させてもらうことになりました。
初日、私自身も初めて行った麻生グラウンドに着くと、ケンゴが上り坂を走ってくる姿が見えました。「お前、ギリギリじゃないか」と言うと、「まだ時間前ですよ」
そんな会話があったことが昨日のことのように思い出されます。それからの数ヵ月、何度もケンゴから「まだですか?」と聞かれる度に、庄子さんに「まだ決まりませんか?」と連絡したことも懐かしい思い出です。
大学時代を振り返ると、大事な試合で、いつもチームに力を与えるパワーが出せる選手でした。思い出されるのは1部昇格がかかった最終節の日大戦。うちが退場者を出し、10人になり、ケンゴを1トップにしました。彼は頭がよく、対応力に優れていたし、意外と後ろからぶつかられても柳の枝のようにしなやかさで相手の力を吸収してしまう。ものすごく足が速いわけでもないし、ものすごい上手さがあったわけではないけれど、相手をかいくぐれるような巧さと、何より頭の回転が早かった。この試合でも日大が途中4バックから3バックに変更し、ケンゴはよりマークされましたが、ハーフタイムに「ボールを持ったらすり抜けろ」と言ったアドバイスを実践し、1ゴール2アシストでチームを勝たせる働きをしてくれました。
引退会見の朝、練習試合で浦安に移動する途中、コンビニで買ったコーヒーをひとり飲んでいるとケンゴから電話がありました。
「今日、引退発表します」と。
「ケンさんのおかげでフロンターレに入れました」と言ってくれました。
彼の人生を振り返ると、決して順風満帆だったわけではないと思います。そういう苦労も経験してきたからこそ、40歳でバースデーゴールも決められたのだろうと思います。でも、人として濃い人生を送っていると思います。
2017年12月2日、フロンターレ初優勝をテレビで観て泣き崩れるケンゴの姿を目の当たりにし、あの最終節日大に勝利し、キャプテンの重責を果たし、泣きじゃくっていたケンゴの姿を重ねました。シルバーコレクターと言われてきた彼が、やっとつかんだゴールドの輝き。それを観られて、私も心から嬉しかったです。
- 山口芳忠
- やまぐち・よしただ
- Yamaguchi Yoshitada
- 中村憲剛が在籍当時中央大学サッカー部監督を務める。
彼が大学3年の時に中央大学が関東サッカーリーグ2部降格をし、4年生でキャプテンになって1年で1部に復帰を果たした。4年生をよくまとめていたし、選手たちもケンゴについていき、ミーティングもよくしていました。あの時の彼は、本当に昇格のためにすさまじい努力をしていた。彼がいなかったら1年で昇格ができなかったかもしれない。だから、私は、あいつには頭が上がらない。
4年の時にキャプテンを任せたけど、それで強くなったわけじゃない。元々責任感が強い男だった。部員数も多く、チーム状態が決していい時ばかりではなかった。そういうこともわかったうえで、高い目標に向かって一生懸命貫いていたし、ブレなかった。
セレクションを受けたわけではなく、志願して入りたいと飛び込んできた選手。周りからはひ弱に見えたかもしれないし、1年の時は実際そうだったかもしれないが、傍で観ていて、体は強かったという印象がある。それは、あいつが一生懸命努力したからだと思う。接触プレーにも吹っ飛ばされなかったし、マークをされても跳ね返す身体と気持ちがあった。そうなると、元々持っていた技術がより一層活きた。
彼は頭がいいから、その場その場でいろんなことを瞬時に考えられる選手だった。人よりも、いっぱい考えられる。常に考えていたし、体がそういう風に動く選手でもあった。また、瞬間的な速さも際立っていた。自分のことをよく知っていた選手だった。こちらが要求したことは、まずは全てやってみる。やらないで何か言ったりすることはなかった。負けず嫌いで練習をいっぱいやっていた。プレーでやられたら、プレーでやり返す。それが一番根本にあること。人に負けたくない人は強くなる。
そうしたことも40歳まで現役を続けられた理由だと思う。そうじゃないと、あそこまでできないと思う。
引退を知り、辞め方に僕は驚かなかった。力尽きるまでボロボロになって引退するという考えはなかったと思う。彼は賢い子だから、区切りをつけていたんだと思う。
彼は、そういう男だから。
十分、やったと思う。
だから僕には、惜しいなという気持ちはない。
あれだけ活躍して、自分で納得して引退をする。
何も言うことはありません。
僕にとって、あいつと4年間一緒にやれたことは、人生のお土産です。僕は、ああいう選手には二度と会えないと思っていたし、思っています。授業もちゃんと出て、サッカーもいつも全力でやっていました。常に全力を尽くしていました。すごい選手だと思います。
1日、1日、うまくなろう、強くなろうと一瞬一瞬を大事にしていた。きっとそういう日々を続け、40歳まで変わらなったのでしょう。
彼は、そういう男だから。
そういう気持ちで40歳までやれたことは、僕はすごいことだと思います。
ともに戦ったかつてのフロンターレ戦士たちから
- 我那覇 和樹
- がなは・かずき
- Ganaha Kazuki
- 1999年~2008年所属。2004年のJ2優勝・J1昇格の立役者であり、エースストライカー。
- 現 北信越フットボールリーグ・福井ユナイテッドFC所属
ケンゴの引退発表を聞いて、このタイミングで引退するとは思ってなかったので驚きました。もっと長くプレーする姿を見ていたかったというのが率直な気持ちです。
ケンゴとは同い年ですが自分より4年後にケンゴが入団してきた時、ボールを止める・蹴る技術がしっかりしていて当時から将来必ずフロンターレの中心選手になると思っていました。
ケンゴのアシストからゴールを取らせてもらった後、真っ先に抱きついて誰よりも喜んでくれた事は今でも覚えているしすごく嬉しかったです。
日本代表に一緒に入った時もケンゴの存在が心強かったし、すごく頼もしかったです。少しの時間でも代表で一緒にプレーできた事は今でも僕の財産です。
その後、別々のチームでお互いに年齢を重ねていきましたが、やっぱりフロンターレはすごく気になるチームなのでケンゴのプレーを通して試合の映像や結果は常にチェックしていました。
誰からも慕われるケンゴの人間性は尊敬しているし、フロンターレが優勝できたのはケンゴのためにというみんなの思いもあったんじゃないかなと。
本当に18年間の現役生活お疲れ様でした。フロンターレひと筋でずっとやってきてMr.フロンターレとしてクラブを象徴する選手になったケンゴと時間を過ごせた事をすごく誇りに思います。次のステージでの活躍も心から望んでいます。ケンゴありがとう。
- 谷口博之
- たにぐち・ひろゆき
- Taniguchi Hiroyuki
- 2004年~2010年所属。2006年には中村憲剛とのダブルボランチで共にベストイレブンを受賞した。
- 現 サガン鳥栖強化部
まずは18年間おつかれさまでした。って僕が言うのもおかしいですね。40歳手前で怪我もあって心配しましたし、もう少し現役でやってほしいなという気持ちもありました。でも今シーズン限りで引退するという本人の固い意志があると思うので、そこは尊重して次のステージもすごく楽しみにしています。
僕はケンゴさんと一緒にフロンターレで7年間プレーさせてもらったんですが、ほとんどの試合でケンゴさんとボランチを組ませてもらいました。ケンゴさんがいなかったら間違いなく今の自分はないと思っていますし、ケンゴさんも僕がここまで来られたのは俺のおかげだぞって思っているはずです。それぐらい成長させてもらいました。僕がケンゴさんに頼りすぎていたところがあって、本当に何もかも教えてくれました。
僕がフロンターレでうまくいかない時期、こうしなきゃうまくならないぞ、成長しないぞってずっと言い続けてくれました。遠征先のホテルでしたかね。ケンゴさんが紙に書いて説明しながら、こういうポジションを取るんだ、そうしないとここでサッカーできなくなるぞって言われました。今思うと本当にいろいろ考えてくれていたんだなって感じます。
僕にとってはケンゴさんは、ピッチ内外でサッカーのことを一番教えてくれた人です。性格的にはすぐにカッとなる子どもみたいなところもありますが、冷静になったときに愛があるというか。僕の場合、ケンゴさんの奥さんの加奈子さんにもお世話になりました。めちゃめちゃケンゴさんに怒られてるとき、それを止められるのは加奈子さんしかいなかったので。加奈子さんにもお疲れさまですと言いたいです。
ケンゴさんがこれから何をするんだろうというのは、すごく楽しみです。サッカーが大好きで話すのも大好きだから、指導者や解説をやったりするんでしょうか。自分で言うのも何ですが、ケンゴさんも僕のことをすごく可愛がってくれていると思うので、またゆっくり話をしたいなって思っています。
- 三好康児
- みよし・こうじ
- Miyoshi Koji
- 小学5年よりフロンターレ下部組織に所属、2015年トップチーム昇格。
- 現 ロイヤル・アントワープFC
ケンゴさんの現役引退の話を最初に聞いたとき、やはりびっくりしました。今年のJリーグは連戦が多くて、ベルギーでは時差的に昼にJリーグの試合をやっていることが多かったのでフロンターレの試合をよく観ていました。ケンゴさんが怪我から復帰してプレーしている姿も観ていたので、まさかという思いがありました。でも、現役引退会見の話を聞いて、めちゃくちゃカッコいいなって。サッカー選手として理想の引退の仕方だなと思いました。
僕は小学校でフロンターレアカデミーに入ってトップチームの試合を観に行くようになってから、ケンゴさんはずっと憧れの選手でした。それは一緒にプレーしているときも変わらなかったです。アカデミーの頃からいろいろ話をして気にかけてくれていて、プレーのアドバイスもそうですし、サッカー選手としての振る舞い方としてもお手本になった選手です。僕がサッカーをする上での父親的存在でした。
今思い返してみると、アカデミーの選手がたまにトップチームの練習に参加したときに、真剣に厳しい言葉を投げかけてくれていました。育成年代とプロとの意識の違いや、パス1本、トラップ1本に対するプレーの質の要求はプロ、アカデミー問わず同じようなこだわりを持たなければいけないことを教えてくれた選手です。それをプレーでも言葉でも伝え続けてくれました。
まだまだプレーできるとたくさんの人が思っているでしょうし、僕もそう思いますが、逆にそういうタイミングで自分で現役引退を決めて次のステップに進むということで、この後ケンゴさんが何をするのか楽しみです。サッカーに関係することはもちろんですが、サッカー以外でも何をするのがすごく気になります。
あと僕はケンゴさんみたいなプレーヤーになれるわけではないですが、ケンゴさんのプレーや人間性を見習って、ケンゴさんのようにいろいろなものを残せるよう成長できればと思います。
- 板倉 滉
- いたくら・こう
- Itakura Ko
- フロンターレ下部組織(U-12)1期生として加入し、2015年にトップチーム昇格を果たす。
- 現 FCフローニンゲン所属
ケンゴさんが40歳でバースデーゴールを決めた次の日、フロンターレが記者会見を開くというお知らせがあって、滅多にないことなので「何だろう?もしかしてケンゴさんのことなのかな?」と、ちょっと思っていました。オランダと時差があるので朝早かったんですが、目覚し時計をかけてリアルタイムで記者会見を観ました。
そこでケンゴさんの現役引退の話を聞いて、「まだ全然できるでしょ」とびっくりしたのが最初の感想です。でもよく考えてみると、カッコいいなって思いますよね。ただ、最初に聞いたときはやっぱり寂しかったですし、どこかでもう一度ケンゴさんとプレーしたいな、一緒にプレーしてるんじゃないかなって勝手に想像していたので。
僕は三好と同じでケンゴさんは小学校低学年のときから見ていた存在で、プロになって同じチームでプレーさせてもらってからもケンゴさんはヒーローでした。一緒にプレーして改めてケンゴさんのすごさを感じましたし、ちっちゃな頃からフロンターレを応援していた頃と気持ちは変わらないです。
子どもの頃、麻生グラウンドでケンゴさんにサインをもらったことを今でも憶えています。僕がプロに入ってからもいろいろ話をして、なかなかうまくいかない時期にケンゴさんが僕のことを気にしてくれて「自分にベクトルを向けろ。人のせいにするな」と言われました。
その言葉は海外に来てからも自分のなかで大事にしています。ケンゴさんから言われる言葉は、すごく重みがあって説得力がある。僕が1年目のときに「お前、ここはアカデミーじゃねえんだよ!」って怒られたのもいい思い出です。プロってこんなにすごいんだって気づかされましたし、そこにケンゴさんがいて怒ってくれる。サッカー選手として本当に幸せなことだと思います。怒られても練習後にはフォローしてくれますし、やさしく話しかけてくれる。やっぱり僕にとってはヒーローなんですよね。
僕がこういう言い方するのもおかしいですが、まずはおつかれさまでした。
僕がプロに入ったとき、ケンゴさんみたいなサッカー人生を歩みたいっていう思いがありました。ただ、それって簡単なことじゃなかったですし、今自分は3クラブ目で海外でプレーしていますが、ひとつのクラブで18年間プレーするっていうケンゴさんのすごさを、もっともっとたくさんの人に知ってもらいたいです。そして最後は、気持ちよくケンゴさんを送り出してもらいたいです。
- 森 勇介
- もり・ゆうすけ
- Mori Yuske
- 2005~2010年所属。右サイドのレギュラーとして活躍した。中村憲剛とは同い年。
- 2020シーズンは 東京ヴェルディジュニアユースコーチを務めた。
ケンゴの現役引退を知って、率直にびっくして「ケンゴ辞めるって。まだできるじゃん」っていう感じで自分の周りの人たちと話していました。
最初は一ファンというか、一緒にやっていた選手としては、ぼろぼろになるまでやってもいいじゃないかなと思いました。でもまぁ、40歳だからもう十分なのかなと。だからケンゴが自分で区切りをつけて辞めるっていう、本人の意見が一番素晴らしいと思います。
ケンゴは人間的にも素晴らしいし、走れば球が出てくるからサイドのプレーヤーの自分としては走りがいがありました。他の選手だったら走らないけど、ケンゴのときは苦しい状況でもボールが出てくるから走っちゃえって思いながらサッカーをやっていました。自分が一緒にサッカーをやったなかで、一番うまかった選手だと思います。
あの体で強い選手とぶつかっても彼はサッカーをよく知ってるから、どうやれば自分の前に転がってくるか、どのタイミングで足を出せば自分のボールになるかをよく知ってる。それから今自分が指導者になって、後ろにマークにつかれても前を向ける選手はなかなかいない。事前に情報を入れておいて周りを見ることはみんなするけど、認知能力だけじゃなくてボールをもらう瞬間状況が変わっているなかで前を向くっていう感知能力が他の選手と違うところだと思います。
まずは長い選手生活おつかれさまでした。ケンゴのプレーはフロンターレのファンだけじゃなくて、ああいうプレーをしたいっていう日本の子どもたちの目標になっていたと思います。こちらの願望としては、ケンゴのような選手が指導者をやってほしいなというのが一番です。いい選手をを育ててもらいたいと思います。
- 鄭 大世
- ちょん・てせ
- Chong Tese
- 2006年~2010年7月所属。その後、海外移籍を経て、Jリーグに復帰した。中村憲剛から多大なる影響を受け、引退セレモニーでもスピーチを贈った。
まずはケンゴさん、18年間おつかれさまでした。
エリートではなく、プロも危うい状況だったと聞いてたのに今の神々しい姿を見ると、当時華奢な躰にも関わらずオファーを出したスカウトも共に殿堂入りさせて川崎のど真ん中に2人の銅像を立ててあげたいくらいです。
多くの名選手とスタッフが支えた事を忘れてはいけませんが、ファン目線としては憲剛さんが1から10まで全てを作り上げたと思うぐらい強烈な印象です。
閑古鳥が泣いてた等々力から始まり、万年シルバーコレクターと言われた川崎を優勝にのしあげて、いまではチケットはプレミア価格になり、Jリーグ史上最強とまで謳われるまで、常にチームの中心でプレイし、18年という月日をかけて陽が登ったライジングサンの『太陽』そのものが中村憲剛だと思います。
ついに初優勝を成し遂げ、ピッチで突っ伏してる号泣してる写真をみただけで涙が溢れてきます。
当時から3つ上だけど30代の大ベテランのようで、思慮深く、発言に力と重みがありました。そして打たれ弱く繊細な僕はゲロ吐くぐらい怒鳴られました。メディアやサポーターの皆さんから見ると、叱咤激励されて若い選手が成長したって美談に映りますが。新人にはきつくて、多分あの時自信を後押ししてくれてたら僕はもう1年早く活躍してた、、はず(笑)。冗談ですがケンゴさんは喝采しか浴びてないと思うので、それだけは物申させてください(笑)。
余談はさておき、川崎を巣立って10年以上、今なお中村憲剛の幻影を追いかけています。FWにとって中村憲剛ほどチームの流れよりFWを活かそうとする存在はいませんでした。いい動きをすれば必ず出してくれるし、動いてないと逆に怒鳴られるほどで、やり甲斐があり、FW冥利に尽きる存在です。
「冥利に尽きる」を辞書で引くと、それぞれの人がその立場でこれ以上にないと思うほど恩恵を受けたとき。とでます。その恩恵を与えてくれる人がまさに、中村憲剛です。
去年の大怪我で出場は少なく、憲剛さんなしでも堂々とJリーグを席巻している姿を見ると、中村憲剛というプラットフォームがあってこそで、まるで大きな憲剛さんのお腹の上を我が子のように愛しく見守られながら若手が無邪気に走り回ってるような描写に見えてきます。今年も復帰したタイミング、40歳の誕生日にも決めて、最強のクラブで優勝して有終の美を飾る煌びやかな姿を誰もが羨望の眼差しで見つめています。
そして引退後は何ひとつ心配することなく多才な憲剛さん。僕のメンターそのものです。苦しい時でもギリギリまで連絡はしないようにしてますが、その時はいつも的確なアドバイスをくれて勇気づけてもらいました。37歳になる今でも、あの頃のように憲剛さんに褒めてもらいたいと思いながら日々、サッカーをしてます。
また本当に苦しい時、僕が引退する時は一番に連絡しますね。夢を見させてくれてありがとうございました。最高でした。お疲れ様でした。
- 大久保 嘉人
- おおくぼ・よしと
- Okubo Yoshito
- 2013年から3年連続でJ1リーグ得点王という記録を打ち出し、その多くを中村憲剛との抜群のコンビネーションで叩き出した。
引退発表会見の4日前ぐらいにケンゴさんから連絡が来て、最初聞いたときは怪我から復帰したからあと1年ぐらいやるのかなと思いましたけど、「いやー、俺たちもそんな歳になったか。時代が流れるのは早いねー」っていう話をしました。でも、35歳をすぎて40歳までに辞めるって決めて、やりきったと思います。けど、ケンゴさんのようなパスを出せる選手は今の時代なかなか出てこないから、あのプレーが見られないのはちょっと寂しいですよね。
ケンゴさんとはよく一緒にご飯を食べたりしていました。俺はフロンターレに来る前の代表のときからケンゴさんのことを知ってて、特にサッカーの話をするわけではないんですけど、俺のプレーのすべてをわかってくれる。預けてほしいなというときにボールが来て、「わー、それそれ!」っていう感覚でプレーすることができました。
そこから俺がフロンターレでプレーするようになって、俺自身のプレーも変わってまたサッカーが楽しく思えるようになりました。ケンゴさんがいなかったらどうなってたかわからないです。自分のレベルを引き上げてくれたというか、改めてサッカーって深いなって思えたというか。だから本当に本当に、楽しかったです。
最近はケンゴさんと会う機会がなかなかないですけど、コロナ禍が落ち着いたらご飯食べようと話しています。
ケンゴさん、まずはおつかれさまでした。サッカーファンを楽しませてくれて、俺たちも楽しませてもらって、一緒にプレーして俺自身も楽しかったです。サッカー選手としては引退ということで、あのプレーのセンスというか感性は本人しかわからないと思いますけど、ケンゴさんがその極意を下の代に伝えて、中村憲剛選手と同じレベルのパスを出せるような選手を生み出してほしいです。俺は怪我が多くて大変だけど、もうちょっと頑張る。ケンゴさんには及ばないけど、もうちょっとだけ頑張るから。
- 稲本潤一
- いなもと・じゅんいち
- Inamoto Junichi
- 2010年~2014年所属。Jリーグ復帰を川崎で果たし、2010W杯にも選出された。
- 現 SC相模原所属
18年間おつかれさまでした。対戦相手としてはそれほどマッチアップしたことはないですが、つねにゴールを見ていて、ゴールに直結するプレーが怖かった印象です。相手にすると一番嫌なタイプの選手でした。
人間性としてはああ見えて日本代表ではなかなかのいじられ役で、チームに戻ってくると若手からもけっこういじられてました。いいキャラクターでしたね。
今ぱっと振り返って思い浮かぶエピソードは、やっぱり2010年のワールドカップ南アフリカ大会です。フロンターレを代表してワールドカップをケンゴと一緒に戦えたのは感慨深いというか、すごく嬉しかったです。
フロンターレで一緒にプレーしたときの印象ですが、同じチームになったときにあれほど頼りになる選手は僕のサッカー人生のなかでほぼいません。一緒にプレーしていて、すごく楽しい選手でした。
そのケンゴが現役を引退するというのは寂しい限りですが、これからのセカンドキャリアでケンゴがどうなっていくか楽しみにしています。今までもそうでしたが、これからも日本のサッカーのためにより頑張ってもらいたいと思います。
- 川島永嗣
- かわしま・えいじ
- Kawashima Eiji
- 2007年~2010年7月所属。中村憲剛とともにフロンターレの躍進に貢献。その後、海外で現在までも活躍を続けている。
- 現 ストラスブール所属
まず、ケンちゃんとは本気で、一緒のクラブでもう一度サッカーをやりたかったです。ケンちゃんと会うたびに、ずっとそういう話をしていました。だけど、いつの間にかそういう年齢になったんだなって。ケンちゃんから電話がかかってきた瞬間、もしかしてっていう予感はありました。ただ、ケンちゃんが35歳の頃に現役は40歳までって決めていたのは知りませんでした。
正直、僕らの年齢になってくると、逆にどこで区切りをつけるかが難しいと思います。長くやろうと思えば、もしかしたらいろんな形でサッカーを続ける方法があるかもしれません。ただ、続けることが幸せなのかどうかは、人それぞれです。どこで辞めるかというのもすごく大事なことだと思いますし、終わり方によって自分のなかでの満足感も全然違うと思います。
ケンちゃんのように周りから愛されて、自分が素晴らしいと思えるクラブで、いい形で辞めることができるのは稀だと思います。僕は日本で3チームやらせてもらって、海外では4チーム目だし、ひとつのチームで続ける難しさはよくわかります。もっとやってもらいたいと思われて、サポーターからも確実に愛されてずっと相思相愛で、なおかつ優勝して、今年また優勝して現役を引退する。そんな区切りのつけ方ができるのは選手としてうらやましいです。だからケンちゃんの話を聞いたときは、逆にこのタイミングが最高なんだろうなって思いました。
友人として、1人のサッカーファンとして、ケンちゃんには感謝の気持ちでいっぱいです。僕はサッカーはひとつの芸術だと思っています。今の時代のサッカーは新しいものを生み出したり、人を驚かせることってより難しくなってきていると思います。でも、そういう流れにあっても、ケンちゃんが繰り出すプレーは創造性にあふれていましたし、いい意味で期待を裏切るようなプレーをしていました。今なかなか見ることができないようなプレーを見せ続けてくれた中村憲剛という選手には、本当に感謝の気持ちしかありません。
チームメイトを代表して
- 田中 碧
- たなか・あお
- Tanaka Ao
- 小学3年よりクラブ下部組織に所属。2017年にトップチームに昇格する。
僕がケンゴさんのことを最初に知ったのは、小学校3年生でフロンターレに入ったときです。
2006年にフロンターレがリーグ戦で2位になって、2007年に初めてACL行ったぐらいですかね。2010年ワールドカップ南アフリカ大会でケンゴさんがメンバーに選ばれたときは、アカデミー生のみんなで花束を渡しました。
子供の頃ってわかりやすいジュニーニョ選手のすごさにみんな目が行きがちなんですが、年齢が上がっていくうちにケンゴさんのすごさが分かるようになってきました。とくに僕はボランチだったので、ケンゴさんのプレーはよく観ていました。
それからトップチームに上がって、ケンゴさんと一緒にプレーすることができました。実際にケンゴさんとプレーすると、見ているだけではわからないすごさがありました。ボールを取れないし、触れないし、これはもう体感しなければわからないと思います。本当にびっくりしました。
僕はタイプ的にはケンゴさんとは違いますが、すべてが参考、というか勉強になります。基本技術はもちろんなんですが、ボールを受ける前、受けたあとの判断力がすごい。勉強になることしかなかったです。
だからケンゴさんの現役引退の話を聞いたときびっくりしました。
ケンゴさんと一緒にプレーできる時間は残り少ないですが、今までと同じくいろんなものを学びたいですし、同じピッチに立っていろいろなものを感じたいです。リーグ優勝することができて、天皇杯に出られるということでケンゴさんと一緒に戦える試合が増えたのでよかったです。まだまだピッチでケンゴさんのプレーを見ていたいです。
- 登里享平
- のぼりざと・きょうへい
- Noborizato Kyohei
- 2009年より川崎フロンターレに所属。ルーキー時代から12年に渡り、中村憲剛から薫陶を受けた。一般社団法人日本プロサッカー選手会副会長を務める。
今シーズン限りで引退するという話をケンゴさんから直接聞いて、ずっと一緒にやってきて当たり前のようにそばにいる人がいなくなってしまうことを考えるとやはり喪失感がありました。
まだまだ一緒にプレーしてもらえると思っていたので、残念な気持ちが大きかったです。ただ、ケンゴさんの意志は固かったですし、思えば第一線でずっと先頭に立ってきてくれました。今は感謝の気持ちでいっぱいですし、ケンゴさんから直接話してもらえるような間柄でいられたことは本当に幸せだなと感じています。
僕がサッカーで行き詰まったとき、ケンゴさんは的確なアドバイスをくれたり、大きなヒントを与えてくれました。そこでいろいろ考えて道が開けたとき自分の世界が広がる感覚を、何度も経験させてもらいました。僕がプロの世界でここまでやってこられたのも、より自信を持ってプレーできるようになってきたのも、ケンゴさんと一緒にプレーできたことがすべてだと思っています。在籍でいえば最長の12年間ケンゴさんと一緒にチームにいられたのは率直に嬉しいですし、自分にとって大きな財産です。
フロンターレでプレーした選手たちが見てきた先輩像イコールケンゴさんだと思いますし、プレーヤーとしてもそうですしが1人の人間としても見本となってくれました。若手や中堅に関係なく、ピッチ内外でみんなの道標になっていたのがケンゴさんだと思います。
ケンゴさんに言いたいのは、おつかれさまでしたということと感謝の気持ちです。自分なりにサッカーを理解していくなかでケンゴさんと一緒にプレーして、キャリアを積み重ねていくごとにそのすごみがわかるようになってきました。年齢を重ねてもレベルアップしていくケンゴさんの姿に刺激を受けましたし、毎試合が楽しみでした。今までもみんなを楽しませてくれましたが、僕としては今後のケンゴさんがどんなことをしてくれるのかすごく楽しみです。全力で応援しています。
フロンターレの“兄貴”たちから
- 寺田周平 コーチ
- てらだ・しゅうへい
- Terada Shuhei
- 1999~2010年所属。“川崎山脈”の一角を担ったDF。32歳で日本代表初出場は、Jリーグ発足後では最年長。
- 現 川崎フロンターレトップチームコーチ。
ケンゴの現役引退を聞いて、怪我から復帰してプレーしている姿を見てやっぱりうまいなと再認識したなかでの話だったので、最初は驚きました。と同時に、僕もそうでしたが現役引退というのはいろいろ考えた上での決断だと思ったので、驚きはしましたがおつかれさまという気持ちが出てきました。
僕が現役だったときにケンゴがフロンターレに入ってきて、技術があるのはもちろんですが、華奢だけけど体がすごく動く選手だなという印象がありました。こんなスーパースターになるとは想像がつきませんでしたが、ああいう選手がここまで成長できるんだというのは、一時期プレーヤーとしてケンゴと一緒にサッカーができた僕としても感慨深いです。
今思うのは、日本人に合うのはどんなサッカーか、日本人が世界で戦うためには何が必要かというテーマを地で行く選手がケンゴだと思います。体は小さいけど技術が飛び抜けていて、皆さんご存知のようにあれだけのプレーができる。日本が世界で戦っていく上での最高のモデルになる選手じゃないかと思っています。
40歳でチームの中心にいて、第一線のパフォーマンスを発揮できる選手というのもすごいです。ケンゴが引退発表したあとのアウェイゲームの試合後、ケンゴがスタンドの対戦相手側の方にも挨拶をしていて、スタジアムにいる皆さんに拍手で迎え入れられていました。すごい光景だなと感動しましたし、それだけの選手なんだなと改めて感じたのともに、本当に辞めちゃうんだなという実感が少しわいてきました。
これからケンゴが何をするのか具体的にはわからないですが、ケンゴの経験を後世に伝えていくのは日本のサッカー界にとって財産になるんじゃないかと思っています。日本の指導者の方たちもケンゴに聞きたいことがたくさんあるでしょうし、参考になることがたくさんあると思います。これからも日本のサッカー界で活躍してもらいたいですし、なくてはならない存在になるだろうなという気がしています。だからすごく楽しみです。
- 伊藤宏樹
- いとう・ひろき
- Ito Hiroki
- 2001年〜2013年所属。長年キャプテンを務め、川崎フロンターレの礎を築いた。
- 現 川崎フロンターレで強化担当
去年のキャンプの時期だったと思うんですが、ケンゴから40歳での引退を考えているという話を聞きました。それからの過程でヤスト(脇坂泰斗)やアオ(田中碧)といった若手が育ってきて、カオル(三笘薫)やレオ(旗手怜央)といった選手も入ってくることが決まったので、彼らが1人前に育ってから辞めろよ、チームの下地を作って安心して辞めろよと、冗談ながら話していました。
去年の終わりにケンゴが怪我したときに僕はちょうどブラジルにいて、現役引退の話を聞いていたのでどうするんだろう思ってブラジルから彼に電話をかけて話をしたのを憶えています。そこからリハビリを頑張るしかないということになったんですが、今年に入って新型コロナウイルスのことがあって、お客さんが入らない中で引退するの? 今年は違うんじゃないかという話をするようになりました。僕としてはJ2からここまでのクラブになったフロンターレの功労者を、満員ではない等々力で引退させるのは違うんじゃないかという思いが強かったです。
フロンターレの成長イコールケンゴの成長と言ってもいいぐらいの選手で、彼がキャリアを積み重ねるごとにクラブとしての体力、成績、そしてサポーターも一緒についてきました。本人がどこまで考えていたかはわかりませんが、周りを引き込む力があって、つねにサポートしてくれる人がいて、特に20代の頃は感情のおもむくままにずっとサッカーしていたと思います。それから30代になって風間さん(風間八宏)が来て新しいスタイルのチームになって、そこで新しいモチベーションが湧いて、その伝える力で周りを巻き込んで理解者を増やしていったのも大きかったと思います。プレーヤーとしてはいつがピークなのかはわからないですが、自分を生かすため、生かされるためにつねにプレースタイルを変化させて、より賢くなっていったと思います。
今までフロンターレに関わってきた人たちにいろいろな明るいニュースを届けてきたケンゴですが、30代後半になってJリーグMVPを受賞して、シルバーコレクターと言われ続けたなかで初優勝して、連覇もして、最後の最後に大怪我から復帰した姿を見せて、さらに記録づくしのシーズンを演出してくれました。いつもみんなのヒーローだったと思います。
夢をありがとう!
日本代表でお世話になった先輩方から
- 中村俊輔
- なかむら・しゅんすけ
- Nakamura Shunsuke
- 日本を代表するMFとして、日本代表、海外リーグでも実績を残し、今なおJ1リーグで多くのサッカーファンを魅了する。
- 現 横浜FC所属
現役生活おつかれさまでした。フロンターレひと筋で、フロンターレをこれほどのビッククラブにすることができたのは、ケンゴの活躍、努力があったからだと思います。
ケンゴはフロンターレの心臓として、ゲームを支配できる能力を持った数少ない選手の1人だと思っています。
ケンゴは純粋なサッカー小僧という印象で、オシム監督時代の日本代表でケンゴとヤット(遠藤保仁選手)、そして自分を同時に使った試合があって、楽しくサッカーができたことを憶えています。
ケンゴはインサイドパスのフォームがきれいで質が高く、味方がボールを受けやすい。ボールを蹴る姿が絵になるし、みんなのお手本にして欲しいぐらいです。サッカー界に多大な影響を与えてくれた数少ない選手です。
これからもケンゴのサッカー人生が続くと思うので、ケンゴらしく、頑張ってください。
- 川口能活
- かわぐち・よしかつ
- Kawaguchi Yoshikatsu
- ワールドカップに4度日本代表として選出されるなど日本代表するGK、南アフリカW杯で中村憲剛が「助けられた」と感謝している存在。
- 現 U-23日本代表GKコーチ。
「何て優しいパスを出すんだ」。中村憲剛に抱いた最初の印象でした。
出会いは日本代表。イビチャ・オシム監督に初招集された憲剛と、ボール回しで同じグループになったんです。そのとき、彼からもらったパスの柔らかさに、衝撃を受けたことを今でも覚えています。その後も注視していると、オシムさんが課す複雑な練習をミスすることなく、完璧にこなしていく憲剛の姿がありました。技術の高さに加えて、頭の良さは際立っていて、話をすればするほど、それを実感させられました。人間性も素晴らしく、いつしか代表で一緒のときは、憲剛の部屋に行き、話をする関係になりました。そのときも、サッカーに対する造詣の深さはもちろん、彼の観察眼に驚かされるばかりでした。
2010年W杯。なかなか試合に出られず、憲剛は悔しそうにしていた。でも、客観的に見てもパフォーマンスがいいことは明らかだった。そんな憲剛が気持ちを切らさず戦ってくれれば、チームとしては戦力アップにつながる。そう思った僕は、彼の思いを聞き、モチベーションを保つように働きかけました。のちのち、あのときのことを感謝していると言ってくれましたが、その言葉を聞けただけでも、あのとき、自分がメンバー入りした意味があったと、強く実感します。
対戦相手としては、「何て嫌なところにパスを出すんだ」と、いつも思っていました。チームメイトとしては頼もしくも、対戦相手としてはずっと嫌な選手。キャリアを重ねてからは、自らのゴールも増え、年々進化していった印象です。36歳でMVP受賞、37歳でJ1優勝、38歳でJ1連覇。川崎フロンターレをチャンピオンチームへと作り上げたのは、憲剛の力といっても過言ではないと思います。大学まではそれほど有名ではなかった選手が、這い上がり、栄光をつかむ。学生時代に日の目を見なかった選手たちの希望であり象徴。まさに憲剛は、多くの人たちに道を作った選手だと思います。
- 楢崎正剛
- ならざき・せいごう
- Narazaki Seigo
- ワールドカップに4度日本代表として選出されるなど日本代表するGK。2010年JリーグMVP受賞。
- 現 名古屋グランパス スタッフ
ケンゴの引退はサッカー選手の誰もが一番理想とする引退の仕方で、すごくうらやましいです。日本のサッカー、Jリーグを盛り上げた功績は本当に大きいと思います。
ケンゴは川崎フロンターレという攻撃的なチームの中心にいて、ジュニーニョ選手、鄭大世選手、小林悠選手など、強力なFWを操っていました。フロンターレとの対戦時はすぐれたFW陣を警戒しなければいけませんが、実際には本当に一番抑えなければいけないのはケンゴだったと思います。つねにスルーパスをはじめとする決定的なプレーを狙っている選手で、試合中つねに油断できない選手でした。
日本代表で味方として一緒のチームになったときも対戦相手として持っていた印象と同じで、ボランチで出ることが多かったですがゴールに近い位置じゃなくても決定的な仕事をしてくれる。周りがよく見えていて、頼りになる選手でした。
性格的にはとてもフランクで、人見知りすることなく誰とでも普通に会話ができる。背中が丸まっているからでしょうか。みんなからはおじいちゃんと呼ばれていました。でも僕としてはおじいちゃんというより、お猿さんみたいでかわいいなという印象でした(笑)。
川崎フロンターレでシルバーコレクターと言われ、タイトルに恵まれない時期が長かったかもしれないですが、頑張っている人は最後に報われるということを体現してくれた選手だと思います。
「お疲れさま」というより「おめでとう」という言葉をかけたいです。サッカー界にとって、これからも大事な存在としてあり続けてほしいです。
チェアマンからも
- 村井 満
- むらい・みつる
- Murai Mitsuru
- 第5代日本プロサッカーリーグ理事長(Jリーグチェアマン)
ケンゴの現役引退発表会見当日の朝、本人から電話をもらいました。
それまで私も全然知らなかったですし、選手としてまだまだできると思っていました。「まだできるじゃん」って言ったら「みんなに言われます」って話していました。
チェアマンとしてケンゴのMVPの表彰をさせていただきましたが、小中高大と各年代の代表に一度もなったことがない選手で、いわゆる若いときから嘱望されたエリートではなかったと思います。
サッカーが本当に大好きで、少しでもうまくなりたいという一心だった選手が、日本代表、ワールドカップのメンバーに選ばれ、JリーグでMVPまで上り詰めることができた。彼の存在は多くの子どもたち、サッカーを愛する人たちに大きな夢を与えてくれました。
またサッカーがうまくなるというのは、技術やフィジカルの向上だけではないという姿をケンゴが見せてくれました。東日本大震災の復興支援で現地に駆けつけたり、つねに地域のことや社会のことを考えられる人がサッカーもうまくなるんだなという、ひとつの手本のような選手でした。自分が成功すればいいとか、自分のことだけ考えていると、どこかで限界がくると思います。実際に多くの人がケンゴから学んだことがたくさんあると僕は思っています。
以前Jリーグでケンゴと対談したとき、「地域のことはクラブや選手任せになっていますが、どうしてJリーグはやらないんですか?」と直球の言葉を投げかけられました。それがJリーグ・Jクラブが連携して取り組む「シャレン!(社会連携活動)」につながっていくわけです。「シャレン!アウォーズ」の旗揚げのとき、彼に壇上に立ってもらって「約束したろ」という話をしました。Jリーグといえば地域密着ということで、そこでフロンターレが旗振り役を担ってきたわけですが、「シャレン!」の引き金を引いてくれた彼の存在というのは、チェアマンの立場の人間を動かすぐらい大きいです。
ケンゴの活躍の舞台はピッチ上だけではなく、社会貢献活動やメディア対応とさまざまでした。そういう意味では指導者の道を歩むとしても、ピッチに限らず幅広く社会に向けて活躍してもらいたいと思っています。とりわけサッカーを愛してやまない子どもたちに、将来の夢や希望を与えられる存在であり続けてもらいたいです。単なる指導者だけではなく、育成も含めた人材輩出を一緒にやっていけたらと思っています。今までJリーグの活動においてたくさん協力してもらいましたが、これからも日本サッカーの発展ために力を貸してほしいと思います。
最愛の家族からケンゴへ
- 浩子(姉)
- ひろこ
- Hiroko (Kengo's Sister)
- いつも応援し支えてくれたと中村憲剛が感謝する中村家の長姉。
ケンゴは私が12歳、妹が10歳の時に生まれたので、それはもう可愛くて、ミルクをあげるのもおむつをかえるのも散歩に行くのも妹と取りあいするぐらいでした。
いつも元気いっぱいだったケンゴは小1でサッカーを始めてからは忙しかったので、あまり家にいる時間はなかったですが、ゲームをやったり漫画を読んだり、妹と私と3人で楽しい時間を過ごしました。
思い出はたくさんありますが、なかでも等々力での初優勝のことは忘れられません。
あの時、私は他スタジアムの途中経過を見ませんでしたが、周りがザワザワし出して優勝だと知って、妹と加奈ちゃん(憲剛選手の夫人)と号泣して抱き合いました。
スタジアムの上からはケンゴがどこにいるか分からなかったので、突っ伏して泣いていたのは、後から映像で観ました。
「そうだよね、それぐらい泣く出来事だよね」と思ったのと同時に「やっと優勝できたね! よかったね」と心の底から感じました。
今でも私自身、あの光景を思い出すと、胸にぐっとくるものがあります。
小さくて、可愛かったケンゴが、後にまさかプロ選手になるなんて想像すらできなかったし、日本代表選手になるなんて思いもしませんでした。さらには、フロンターレで何度も優勝させてもらうなんて…。
よく試合の後で、妹と電話やメールで、「やったね! ケンゴよく頑張ったよね!」とふたりで盛り上がったものですが、日本代表の試合もドキドキしましたけど、本当に楽しませてもらいました。
また、今年の復帰した試合は、「ケンゴのヒザ、お願いね!」と祈る気持ちで観ました。
昨年から今年にかけて長いリハビリを経験し、復帰した姿も皆さんに観ていただき、すごいなぁと思っていました。
だから、ケンゴから電話をもらった時にも、「名古屋戦、良かったよー!」と伝えました。すると、「実は引退するんだ」と本人から聞き、「えっ」と思わず絶句してしまいました。それぐらい、本当にびっくりしました。きっと皆さんも同じ気持ちだったと思います。でも、改めて引退の考えや理由を聞いて、「そっか。いろいろ考えて本人が決めてたんだな」と受け止めることができました。
きっと、本人はいい時ばかりじゃなく、怪我をしたり、体の痛みをおして試合に出ることもあっただろうし、いろんなことが長い選手生活の間にはあったと思います。
でも、そのひとつひとつにまじめにちゃんと取り組んできたのでしょう。
そういうことを乗り越えて、ここまでやってきた弟のことを尊敬しています。
もちろん、本人が楽しんでいたところも大きかったとは思いますが、そうした毎日の中には、辛いことだってあったでしょうし、また、同志のような加奈ちゃんの支えがあったからこそ、やってこられたのだと思います。
私や妹、家族はみんな、本当に、本当に楽しませてもらっちゃったな、というのが今の一番率直な気持ちです。
本当にお疲れさまでした。
ケンゴ、ありがとう。
姉の浩子より
- 中村憲英(父)
- なかむら・けんえい
- Nakamura Kenei (Kengo's Father)
- 中村憲剛が多くのことを学んだという尊敬する父。
18年間のプロサッカー選手生活を引退するにあたり、寂しいと思う半面、よくここまできたな、楽しませてもらったな、というのが率直な気持ちです。
私たち家族は、18年+α、本当に楽しませてもらいました。
小学校1年で母親がキッカケで始めたサッカー。
3、4年生の頃から時間がある限り、試合なども観に行っていました。なぜなら、「こんなところから打つの?」「あんなに大きい選手たちに囲まれて、ドリブルで行くのか」という“意外性”のあるプレーが観ていて楽しかったからです。
憲剛は、子どもの頃から負けず嫌いでした。
まだ3分、時間がある。
可能性がまだ、3%ある。
あきらめたら終わり。
そういう気持ちでサッカーをやってきたと思います。
私は子どもの頃から憲剛に対して「勉強をしなさい」とか「サッカーをやりなさい」と言ったことはありませんでした。子どもは親が思う以上に利口だし、いろいろ考えているからです。今、子育てを振り返ると、私が彼に伝えていたことは、例えば「やるんだったらやりなさい。やらなかったら自分に返ってくるよ」ということです。それは、人としての生きる上でのアドバイスでした。彼は、それを自分なりに理解して、粘り強く取り組んでいました。
もちろん、その根底には、本当にサッカーが好きだったということがあるでしょう。“好きこそものの上手なれ”と言いますが、まさにそうだったのでしょうね。
憲剛は常に体も小さかったし、学生時代は、高低の差あれど、壁がいつもあり、それを一生懸命乗り越えてきたと思います。
プロになってからも、人間的にもアスリートとしても、努力を重ね、ひとつひとつ壁を乗り越えて、よくここまで頑張ってきたと思います。
しかし、それは決して彼がひとりで成し遂げたわけではなく、スタッフやチームメイト、多くの方たちが後ろから憲剛の背中を押して、サポートしてくれたからこそ、できたことだと思います。そうした皆様、フロンターレサポーターの皆さん、他クラブのサポーターやサッカーファンの皆さん、皆様にお礼を申し上げたいと思います。長い間、お世話になりました。
引退セレモニーでは、来てくださった皆様が、極寒のなか、席を立つこともなく、時に涙を流しながら、最後まで見守っていただいたこと、家族と一緒に立ち会えた私もひじょうに感動しました。 そして、孫の龍剛が、あのような場面でしっかりと手紙を読む姿には、「いい子(孫)に育ったな」と感激しました。この場を借りて、あのようなセレモニーを開いていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。
最後に、憲剛へ。
長い間、ごくろうさんでした。
自慢の息子だと言えます。
よく、がんばりました。
父・憲英より
- 中村 加奈子(妻)
- なかむら・かなこ
- Nakamura Kanako
- 中村憲剛選手の妻(2004年入籍)
35歳の頃に選手としてどういう終わりを迎えるかということを漠然と話していくなかで、40歳までフロンターレの選手として頑張って終わりたいという目標を憲剛は決めました。タイトルを取った37歳頃からは、よりどう終わるかを意識しながら自分が選手としても成長しながら後輩たちに残せるものを残したいと日々過ごしてきたように思います。
思い返すと、2015年に私が第三子を妊娠していた時に、安定期を迎える直前の14週で破水してしまいそのまま緊急入院し、自宅に戻ってからも絶対安静の時間が出産まで約六ヶ月続きました。それまでの憲剛は、家の中で“長男”のような存在だったのが、家族のサポートもあったとはいえ、サッカーをしながら急に子どもたちの面倒を見たり家事をしたりせざるを得ない状況になりました。
そうしたことがきっかけで彼自身何かが吹っ切れて、またいろんなことが削ぎ落されて、思考回路も変わった様に思えました。私は彼のサポートができないことを申し訳なく思っていたのですが、私がそう思っているのも分かっていて、絶対にパフォーマンスを落としたくないと意地でも頑張ってくれたのかもしれません。
中村家にとって憲剛のサッカーが優先だったのが初めてそう言えない状況になり、憲剛も含めて家族全員で乗り切るというような転機となる出来事だったと思います。第三子が無事に生まれ、彼女がぎりぎり記憶に残るぐらいまで頑張りたいという気持ちもあったなか、その年にMVPを頂くことができました。そして、彼女がパパがサッカー選手だとわかるまでプレーすることができました。
引退自体は決めていたことだったので、それから長い時間をかけて、お互いに整理してきたように思います。引退セレモニーの後も「あと2試合まだあるから」と憲剛は、自分に言い聞かせている感じがありました。
でも、天皇杯の準決勝が終わって決勝に向かうまで「今日は最後の練習だった」「今日はクラブハウスで食べる最後の昼飯だった」と、ひとつひとつ「最後」をかみしめているようでした。31日は前泊だったので、30日の夕食の時も、「現役最後に作ってもらうご飯だな」と言っていました。その夜、寝る前に憲剛に呼び止められ、促されて椅子に座ると、「今までありがとうございました」と言われました。お互いに、しんみりしないようにしてきましたが、やっぱり私自身も寂しい気持ちがありました。
引退セレモニーで息子の龍剛がサポーター代表として手紙を読ませてもらいました。パパに知られないようにこっそりちょっとずつ、ちょっとずつ書いていたので長い文章になりましたね。
子供達に引退を告げた時は本当に辛かったです。「パパはずっとフロンターレでプレーしていてほしい」ということをそれまでに息子が会話の端々から発していたので、最初は受け止めきれなかったようです。ですが、息子自身もサッカーをやっているので、半分は現実のこととして理解し、後はどう納得できるか、というところだったと思います。親としては、例えば怪我をしちゃったとしてそれが傍からみたら一見悪いことであっても、そう捉えてほしくない。憲剛も私も、悪いことに見える出来事でもいろんなことが変化をするから人生は楽しい、ということを伝えたかったのです。
たまたま憲剛の引退会見のすぐ後に小学校の面談があり、先生から「龍剛くんにお父さんお母さんが手紙を書いて引退のことを告げたのはいつですか?」と聞かれました。息子は学校の授業で自分の好きな人の新聞を作ると言う課題で「中村憲剛新聞」を作ったのですが、先生がおっしゃるには作り始めた日の夜に龍剛くんは引退のことを聞いたんだと思うということでした。その後、誰にも言えずに引退を知りながら新聞を作ってたのかと思うとその時の彼を想って涙が出そうになりました、とおっしゃっていました。彼なりに色々と消化して成長できたんだと思います。
引退セレモニーの手紙の中には私たちが伝えた言葉が「物事はいつか終わりがあるから美しくおめでたい」と彼の中では昇華されてました。それはとても素敵な言葉だなと思いました。
これまでの道のりは、本当にいろいろなことがありました。
24歳で結婚した頃は、厳しいプロの世界で長く選手を続けられるとはお互いにまだ思っていなかったので、当初は私もいつでも仕事をしていくつもりで憲剛が好きなサッカーをやって私も足りない部分を補ってお互いに頑張って家族として、支え合おう、と思っていました。
私自身も仕事をしたかった気持ちもあったのですが憲剛も代表に選ばれるようになり、子供も産まれめまぐるしく毎日が過ぎていきました。いつしか一女性として社会に貢献したいという気持ちは薄れて「プロサッカー選手中村憲剛」というコンビとして共に生きる同志のような関係となりました。時には、弱音を吐く憲剛に対して、私が厳しい言葉をかけたこともあります。それは私が彼を支えてきたというより、“コンビ”のように一緒に生きてきたという自負もあったからです。だからこそ、引退をすることは寂しいですが、お互いにやりきったね、という気持ちもあります。
引退セレモニーのVTRをスタッフの方に作って頂き、それを観ていて、私は思い知らされたことがあります。
本人には恥ずかしいので絶対に言えないのですが、中村憲剛という選手のことが、私は大好きだったんだなと。
喜怒哀楽が激しくて、勝った時にいくつになっても子供みたいに喜んで、プロの選手の集団のはずなのに、お互い心から信頼してて勝ったり負けたりを一喜一憂しながらまた頑張ろうって言える人たちに囲まれて。そんなフロンターレにいる中村憲剛が大好きでした。
ただただもうこの人をこの場所で見られないんだと思ったら本当に寂しくなりました。わかってはいたんですが、開けたら湧き出してしまいそうなので蓋をしてきました。
中央大学4年でサッカーど素人だった私が興味本位でサッカー部のマネージャーになり、ここまでサッカーを愛することになるとは思いませんでした。その時からずっと憲剛のプレーに魅了されてきたんだと思います。
最後に、川崎フロンターレのサポーターの皆さん、私たち家族にいつも温かく接していただき本当にありがとうございました。
憲剛が行きたくても行けない、味わいたくても味わえない観客席の雰囲気を伝えさせていただくことが私の務めと思っていました。今日はこんな人に会ったよ、こんなご家族がいたよと都度話してきました。サッカー観戦をしたことがないご家族にも来たら絶対に楽しいよ!と言える自慢の場所でした。それはサポーターの皆さんが作り上げてくださった場所です。
18年の間、等々力が徐々に幸せで埋まっていくさまを見させて頂いたのは夢のような時間でした。どうかその夢のような空間がそのまま続いていきますように切に願っています。また等々力でお会いするのを楽しみにしています。
本当に長い間ありがとうございました。