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ピックアッププレイヤー orihica

 2007/vol.05

1997年──。
「じつは高校2年生のとき、知り合いの紹介でフロンターレに練習をしにきたことがあるんです。練習場がまだ麻生グラウンドじゃなかった頃ですね。そのときに紅白戦でDFラインをやらせてもらって、ハイボールをジャンプして頭でクリアしようとしたら、当時フロンターレにいたムタイルに目の前で簡単に胸トラップをされました。え!? こいつ何なんだって。いま思えば、それが初めてプロの世界に触れた瞬間でした」

  三重県四日市で育った村上和弘がサッカーを始めたのは、小学校1年生の頃だった。自宅の前の道を挟んで向かいに小学校があり、幼稚園の頃から少年団でサッカーをプレーしている上級生たちの姿を見て育った。ひとつ上の兄とともにその少年団に入り、3年生になった頃からすでに最上級のチームに混じってプレーしていたという。
「俺らの子供の頃ってまだJリーグがなかったし、サッカー関連の雑誌や番組もほとんどなかった。だから憧れの選手がいたわけでもなく、ただ楽しいから少年団でサッカーをしていました。でも、当時から勝負だけにはとことんこだわっていましたね。何の大会かもあまりわかっていないくせに、小学生ながらにどんな試合でも勝ちたかった。負けたら悔しくて泣いてましたし。子供の頃から負けず嫌いな性格でした」
 村上が中学1年生のときにJリーグが開幕。彼の中学校は全国大会に出場するほどの強豪校だったにも関わらず、本人は相変わらず漠然とサッカーをプレーしていただけで、プロになりたいと現実的に考えることはなかったそうだ。
「みんなと一緒にサッカーをやるのが楽しかっただけです。強いチームだったし、先生にも恵まれていましたしね。いまでも年末年始に実家へ帰ると、先生や連絡がつく当時のチームメイトと集まります。さすがに今年はいろいろあってバタバタしたので会えませんでしたけど」
 高校は当時、県内では上位レベルだった四郷高校。だが、四日市中央工業や四日市工業といった壁に阻まれ、全国大会に出場することはできなかった。しかし、高校に入って一気に伸びた村上の能力が地元のサッカー関係者の目に止まり、プロへの道が開けることになる。
「1年から2年に上がって新チームになったとき、自分のなかでひらめいたというか『できるようになった』と感じました。その頃、三重県で初めてS級ライセンスを取った大橋先生(現女子日本代表監督)をはじめとした地元のサッカー界の人たちが『こいつを育ててみよう』と言ってくれて、国体予選や選抜チーム同士の試合をスカウトの人が見に来てくれるようになったんです。それからですね、自分もその気になったのは」

  プロの世界を意識するようになった村上はさらにサッカーに打ち込み、県選抜チームだけではなく、個人的にJリーグのクラブに練習参加しながらチャンスを待った。そのかいあって、横浜フリューゲルスを吸収合併したばかりの横浜F・マリノスに入団を果たす。だが、高校を卒業したての新人Jリーガーにとって、当時のマリノスはまるで別世界だった。

「何しろ当時マリノスにいた選手は、前年のフランス大会に出ているすごい人ばかりでしたから。しかもフリューゲルスからも選手が来ていたから、面子がすごかった。GKに(川口)能活さん、DFに井原(正巳)さん、小村(徳男)さん、マツ君(松田直樹)、左にアツさん(三浦淳)、ボランチに遠藤アキ(彰弘)さん、(上野)良治さん、右に波戸君(康広)、でシュンさん(中村俊輔)がいて、FWに城さん、エジミウソン。ユ・サンチョルはどのポジションでもできるし、吉田孝行君もいる。もうすごかったですね。レベルが全然違いました」

 横浜マリノスの選手に加え、現役韓国代表、そして横浜フリューゲルスからも選手が加わり、Jリーグ屈指の豪華なメンバーを揃えた横浜F・マリノス。だが、そんなエリート集団のなかで、村上は若さゆえの勢いを買われて開幕戦でベンチ入りを果たした。さらにナビスコカップでは、時間こそ短かったものの3試合に出場。ロスタイムに中村俊輔と交代でピッチに入り、J初ゴールも記録した。「マリノスの村上」は順風満帆のスタートを切ったかに見えた。しかし、夏に怪我を負ったのをきっかけに、村上は大きく調子を崩してしまう。ナビスコカップでの出場を境に、トリコロールのユニフォームをまとった彼の姿を公式戦のピッチで見ることはなかった。

村上和弘ORIHICA


ORIHICA

 「プロに入った当初はやれないことはないという感じでしたけど、怪我をしてコンディションが悪くなっていくごとに自信をなくしていきました。何をやってもダメで、体が思うように動かない。2年目もキャンプで首を痛めて、その後に腰も痛めてしまい、怪我ばかりのシーズンでした。いま思えば、登録メンバーには入れたけどプロの環境に慣れていないから、うまくコンディションを作ることができなかったのかな」
 プロ2年目は紅白戦すら出られず、練習グラウンドの隅で地道にトレーニングに励む日々が続いた。そんな村上に転機が訪れる。J1昇格を目指していたJ2・ベガルタ仙台への移籍だった。

shuhei2001年──。
「すでに9月か10月の頃には、マリノスに所属しながら仙台へ練習に行っていました。当時の仙台の監督は日産に縁のある清水(秀彦)さんだったので、その流れでチャンスをもらえたのかなと。シーズン中に他のチームで練習するなんて異例のことですから、マリノスを首になるのは予感していました。俺も馬鹿じゃないので。トライアウトもない時代だったし、自分は実績も知名度もない選手。だからマリノスから契約をしないことを告げられたとき、この先どうなるんだろうという不安はありました。そんなとき、仙台から声をかけてもらえたんです」
 20歳という若さでプロとしての選手生活が終わるかもしれないという瀬戸際で、村上は再びチャンスをつかんだ。しかも新しいチームは、J1昇格を目標に街レベルで盛り上がりを見せていた仙台。まだ自分の能力を出し切れていなかった彼にとって、仙台というチームはこれ以上ない再起の場となった。
「そのシーズンは仙台がJ1に昇格を決めた年で、入ったタイミングも良かったということもあります。俺は20分ぐらい出ただけで、昇格には何も絡んでいないですけど。でも、主力メンバー以外はずっと練習試合があったので、1年をかけて実戦形式を積み重ねていくことで、自分らしさを取り戻すことができたんです。だからこそ、清水さんも天皇杯で俺のことを使ってくれたんじゃないですかね」

 翌2002年、J1に昇格した仙台は大型補強を敢行。小村徳男、森保一、石井俊也、シルビーニョ、福永泰ら名のある選手たちが仙台に新加入した。これにより中盤のレギュラー争いはより厳しくなったが、それでも村上は少しずつ出場の場を増やしていった。
「サテライトでは点を取っていましたけど、実際のところ、自分はまだまだだと思っていました。でも、福永さんが怪我をしてからベンチに入れるようになったんです。トップの試合にもちょこちょこ出れるようにもなりました」
 しかし、村上自身は「J1のレベル」という壁にぶち当たっていた時期と当時を振り返っている。日本平の清水戦では、途中出場しながら交代させられるという屈辱も味わった。監督の思い描いていた動きができなかったための途中交代だった。
「自分にはまだ経験がないし、途中出場でも何もできないのは頭では理解していました。けど、すごく悔しかった。日本平のロッカールームで泣きましたから。でも、清水さんは次の試合のメンバーにまた俺を入れてくれたんです。まぁ、また途中から出て試合後には怒られたんですけどね。監督から信頼してもらっているとは思えなかったけど、気にはかけてくれているのかなって。だから腐ることはなかったです。むしろ、俺の性格を見越してけしかけてくれた清水さんには、すごく感謝しています」

 翌2003年は仙台にとって苦難のシーズンになった。思うように歯車がかみ合わず下位に低迷。最終順位は15位となり、J2降格が決定する。村上自身も模索の日々が続いた。

「チームが始動した日に半月板をやって、キャンプ中に手術しました。試合に出られるようになったのは6月か7月頃だったかな。でも清水さんは監督を解任されて、ズデンコ(ベルデニック)が新監督に就任した。その切り替わりの時期に、たまたまサイドバックをやっていて、それからサイドのポジションでプレーするようになったんです」

 プロの世界でようやくコンスタントに出場できるようになった村上だが、チームはJ2に降格。彼自身もまだ自分のプレースタイルを確立することはできなかった。ただひたむきに、がむしゃらに頑張ることしかできなかった。

 2004年。この年、断トツの成績でJ2優勝を果たしたフロンターレの影で、昇格候補の一角といわれていた仙台は思いのほか伸び悩み、最終順位は6位に終わった。だが、村上自身はレギュラーとしてチームに完全に定着し、確かな手ごたえをつかんだシーズンとなった。
「監督が4バックから3-5-2に代えて、この年から左のウイングバックをやるようになりました。右サイドもやったし、ストッパーもやりました。レギュラーとして年間を通して試合に出たことで、やっとサッカー選手としての自分が見えたような気がします。J1に上がれなかったのはチームの一員として最悪でしたけど、大きな自信を得たシーズンでもありました」

 この頃には「仙台の村上」として、完全にチームの主力メンバーとして認識されるようになっていた。しかし、その一方で、「勝って当たり前、J1に昇格して当たり前」というチームを取り巻く環境、そして結果が出なかったときのサポーターからの風当たりも厳しかった。翌2005年も仙台はシーズン前半に伸び悩み、終盤こそ巻き返したものの、最終戦でアビスパ福岡に引き分けて入れ替え戦出場の権利を逃した。

2006年──。
 迎えた2006年。このシーズンはチームの強化方針として、キャンプから昨年のメンバーを固定しつつ、新しく入った選手を加えて戦うことがすでに決まっていた。チームは開幕戦で徳島とのアウェイゲームに4-0で圧勝。村上自身もキャプテンに任命され、「これはいける」という感触をつかんでいたという。しかし、次節のホーム開幕戦、柏戦で不運にも怪我を負ってしまう。
「シーズン前からコンディションも良かったし、1試合だけだったけど、『今度こそは』という期待感がありました。でも、次のホーム柏戦で開始10分で怪我をしてしまったんです。一度は戻ろうとしたけど、ピッチに出る一歩目でこけそうになって、これはダメだと。グラウンドを出てスパイク脱いでテーピング切ってみたら、左足がパンパンに腫れていました。ねんざでしたけど、骨折するぐらいに足をひねってしまったひどい状態でした。キャプテンをやらしてもらってモチベーションも高かったなかでの怪我でしたから、めっちゃショックでした」

 診断は全治10週間。だが、キャプテンとしての責任感から8週目で強行出場。左足の痛みを押して試合に出続けた。
「足は痛かったけど、監督やフィジコが『お前はキャプテンだし、レギュラーだから早く戻ってこい』と声をかけてくれたんです。もちろん、チームドクターやトレーナーからの根拠があっての復帰でした。でも、無理をしながらプレーしていたのは事実です」

  しかし、村上のチームに対する想いとは裏腹に、結果がついてこないもどかしい試合が続く。一度狂ってしまった歯車を元に戻すのは難しい。昇格という目標のために後がなくなったチームは、テコ入れに着手。彼を外したメンバーで戦うことを決断した。チームのキャプテンをメンバーから外すということは、事実上の構想外を意味する。しかし、そこで村上が腐ることはなかった。

「メンバーから外されて危機感があったし、もちろん悔しかった。クビも覚悟していました。でも、監督が俺のことを信頼してキャプテンという役目を与えてくれて、試合に使ってもらった。今までのプロ生活でここまで信頼してもらえたことはない。逆に申し訳ない気持ちで一杯でした。だからチームとして結果が出せないのなら、いま自分ができることをやるしかない。そう思いながら練習グラウンドに足を運んだとき、若い選手たちがいるわけですよ。そこで俺がダラダラやっていたら誰もついてこないでしょ。とりあえず練習をするしかない。それが自分のためになるし、周りのためにもなるんだから」
 トップチームがJ1昇格に向けてぎりぎりの戦いを強いられる一方で、練習グラウンドでは若手に混じって汗を流す村上の姿があった。このシーズンの仙台の最終順位は5位。またしてもJ1昇格を逃す結果となった。

 昇格を目指すクラブが目標を果たせなかったとき、チームは大きな決断を迫られる。コーチングスタッフや選手を大幅に入れ替えるのか、それとも主力メンバーを残して昇格を目指すのか。仙台が選択したのは前者だった。フロントはシーズン終盤には戦力外となる選手に、来シーズンの契約をしない趣旨を告げる。そのリストに村上和弘の名前が記されてあった。

「結果が出なけりゃ誰かしらが責任を取らなきゃいけない。それはわかっていました」

 J1昇格、J2降格。主力メンバーとして多くの試合に出場したが、怪我で長期離脱という苦しみも味わった。その一方で、プライベートでは仙台で知り合った布紀子夫人と結婚。子供も生まれ、家族というかけがえのない存在を手に入れた。仙台という土地は、サッカー選手として経験を積んでいく過程のなかで、人間としても成長できた土地だった。

2006年12月2日──。
 ホームでの最終戦は、「仙台の村上」としてのラストゲームでもあった。6年間のさまざまな想いを胸に秘め、キャプテンマークを巻いて仙台スタジアムのピッチに立つ村上の姿があった。

「『お前どうする、出るか?』と監督に聞かれて、『もちろんやります』と答えました。その前からボランチで出ていて、そこそこ良い形でやれていましたから。ホームでプレーできるわけだし、自分にとってまた新しいスタートになると思っていました。それまで副キャプテンがキャプテンマークを巻いていましたけど、その人のはからいで、そのゲームはキャプテンマークを巻かせてもらいました。きれいごとに聞こえるかもしれないけど、俺の仙台に対する想いを理解してくれている選手が多かったから、みんなが俺の気持ちに乗ってくれたんです」

 試合は2-1で仙台の勝利。その試合は村上のプロ選手生活でもとくに思い出に残る試合となった。

 しかし、シーズンが終わると村上は厳しい現実をつきつけられる。彼にオファーをかけてくるJリーグのクラブはなかった。
「サッカーを辞めようとは思わなかったし、サッカーができなくなるとは思いませんでしたけど、この先どうなるんだろうという不安はありました。と同時に、家族がいる状況で例えばJFLでサッカーを続けたとして、それが自分にとって良いことなのかと考えたとき、それは違うと感じていたのも事実です。プロである以上、生活がかかっているので、『サッカーをやめなきゃいけないかも』という覚悟は持っていました。嫁さんにも、自分のなかで『やばい』と思っている時期から耳には入れていましたし。でも、結婚するときに『シビアな世界だから』と十分言い聞かせていたので、彼女が動揺することはありませんでしたね。逆に俺が精神的に苦しんでる姿を見た上で、『いいんじゃないの。また新しいきっかけになるじゃない』と言ってくれたんです。後から聞くと、多少の焦りはあったみたいでしたけど」

2006年12月12日──。
 プロとしての選手生命を賭けて、村上は合同トライアウトに臨んだ。与えられた時間はわずか25分間。彼はこれまでのキャリアすべてをトライアウトにぶつけた。もしかしたらラストチャンスかもしれない──。そんな危機的な状況のなかで、彼は無理をしてひとりよがりのプレーをすることもなく、自分がどうすればチームとして機能するのかを冷静に考えながらボールを追った。

「ボランチで自分らしさを取り戻せていたので、希望ポジションもボランチで提出しました。プレーできたのは25分間だったけど、自分らしさやサッカーを続けたいという執念みたいなものは出せたかなって。25分間のプレーが終わったとき、もうこれで満足したというか、『これでダメなら...』という気持ちでした」
 やるだけのことはやった。あとは声がかかるのを待つしかない。そんな村上に朗報が届く。トライアウトでのプレーが評価され、ふたつのクラブから獲得の意思があることを告げられる。そのひとつが、過去にも彼にオファーを出したことのある川崎フロンターレだった。

「また良い環境でサッカーができる。チャレンジしたいという気持ちになりました。フロンターレに拾ってもらったことを感謝しなきゃいけません。嫁さんにも相談したらどこでもいいといってくれましたし、そんな立場じゃないということも認識してくれていました。俺が決めたところでやればいいと前向きに考えてくれていたので、すごく助かりましたね」

そして2007年──。
「フロンターレの村上」としての今シーズンの働きは周知の通り。開幕戦でマギヌンの決勝ゴールのアシストを記録し、第2節では今季初ゴールも挙げた。怪我でシーズン直前に離脱したフランシスマールの穴を埋めて有り余る活躍で、現在は左サイドの定位置を確保。

チームの状況によって右サイドにも入る。中盤ならどこでもこなせる彼の存在は、長いシーズンを戦うチームに新しいオプションをもたらした。
「数字については結果オーライな部分が多いです。でも、だからといって現状に満足しちゃいけない。いまが良いと思ってしまったら、それ以上のレベルアップはないですから。試合に出ようが出まいが、俺はこのチームにチャレンジをしにきた立場。ひとつハードルをクリアしたら次、という思いが強いです。フロンターレには点を取れる選手がたくさんいる。ドリブルで突破できる選手もいる。じゃあ、そのために誰かが走らなきゃいけないというのなら、俺が走る。『頑張れるだけ頑張る』って当たり前のことなんですけど、それを続けていくことが大事。変に高望みをせずにできることをコツコツやっていくことが、俺の生命線ですから」

 [むらかみ・かずひろ]
熱いプレーで攻守に渡り、アグレッシブにチームを鼓舞するスペシャリスト。強烈なミドルシュートも大きな武器だ。1981年1月20日生まれ、三重県四日市市出身。178cm、74kg。
>詳細プロフィール

www.orihica.com

ORIHICA's FASHION NOTE

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トップス

プルオーバー風
クレリックシャツ 
5,040円

インナー

カットソー
3,990円

ボトムス

ホワイトデニム
7,140円

オリヒカ担当者から

今回、村上選手に着ていただいたスタイルは今夏おすすめのコーディネイト。プルオーバー風のクレリックシャツにホワイトデニムでマリンテイスト漂う着こなしです。
村上選手も気に入っていただきありがとうございました。

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