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ピックアッププレイヤー orihica

 2007/vol.09

2007年6月23日ジュビロ磐田戦。久木野聡はJリーグ初先発を果たした。AFCチャンピオンズリーグ・グループステージ、タイで行われたバンコク・ユニバーシティ戦でも先発したが、日本のトップでの試合でスターティングメンバーに名を連ねたのは初。偶然にもこの日、地元の宮崎から久木野の両親、そして姉が試合観戦に訪れていた。

 「本当に偶然なんです。前から磐田戦の試合を観たいといわれていたので、チケットを手配していました。そうしたらメンバーに入れて、しかも当日に先発するぞといわれたんです。練習から右サイドをやっていたので準備はしていましたが、本当に出番が回ってきたのでビックリしました」

 本職はFWながら、右ウィングバックという攻守のバランスをとることが難しいポジションを務め、マッチアップする選手に勝負をしかけて積極的にシュートを打つなどして見せ場を作った。後半にはフロンターレのお家芸でもあるスピーディーなパス交換からフリーでシュートを放つが、惜しくもタイミングが合わずにボールはゴール左へと転がっていった。

「周りはしっかりと見えていたし、前半にミドルシュートを打ったことで落ち着いてプレーできました。でもゴール前に入ると、どうしても力が入ってしまうんです。あそこなんですよね。ああいった決定的な場面で決めなきゃいけないんです」

 この試合で久木野はいきなりフル出場を果たした。ポジションを右ウィングバックからトップ下、左サイド、また右サイドと変えながら、持ち前の運動量でピッチを駆け回った。そして2-3のビハインドのまま迎えた試合終了間際、カウンターから久木野にパスが送られる。このままパスがつながれば一気にゴール前に押しこめるチャンス。しかし、あと一歩が出ずに彼はそのままピッチに倒れこんだ。足がつって動けなくなってしまったのだ。
 結局、試合は2-3のままタイムアップ。久木野のJリーグ初先発試合は、終了のホイッスルを待たずに担架で運び出されるという、ほろ苦いものとなった。だが、退場する20歳の若武者に対して、メインスタンドの観客は拍手を送った。その拍手は、現在の実力を100%発揮した久木野に対するねぎらいと期待の表れだろう。

「どのポジションも練習からやらせてもらっているので、違和感なくプレーできました。トップ下になればより攻撃に比重を置けるので、やっていて楽しいです。でも、全力でやらなきゃダメだということで最初から飛ばしていたら、最後の最後で足がつってしまいました…。悔しかったです。正直、90分間出るとは思っていなくて、ペース配分を考える余裕もありませんでした」

「ボールコントロール、パス、シュート。すべての技術がしっかりしている。去年1年間でプロの体ができあがったし、Jリーグのスピードにも順応できるようになってきた。とくに前を向いたときの強さに成長を感じますね」(関塚監督)

2 久木野がサッカーをはじめたのは小学校の頃。昔から運動は得意で、子供の頃から年上の人に混じって試合に出場していた。中学に入ると2年生ですでにレギュラーを確保し、その実力はコーチ陣をうならせるものだったという。久木野自身もプロ指向が強く、中学3年生時にはいくつかのJリーグのクラブユースのテストを受けた。しかし、テストに受かったG大阪ユースは、練習場の近くに家族と住まなければならないという条件があり断念。プロのスカウトの目に止まりやすい東京の高校サッカーの名門校への進学も考えたが、下宿代を含めた生活費のことを考えると躊躇せざるを得ない状況だった。

「東京に住んだらお金がかかってしまうし、そこまで親に迷惑はかけられない。悩んでいたときに中学の先生たちから『それなら地元の高校で頑張って、向こうからスカウトがくるようにすればいいじゃないか』といわれて、日章学園に行くことを決めました」

 地元のサッカーの名門、日章学園に進学した久木野はメキメキと実力をつけていった。3年生時にはエースでキャプテン。チームのなかでも飛び抜けて目立つ存在だった。だが、この代はもうひとつの名門校である鵬翔高校の壁に阻まれ、久木野の在学3年間、日章学園が全国大会の舞台を踏むことはなかった。

 だが、彼に熱い視線を送る1人のサッカー関係者がいた。川崎フロンターレのスカウト業務に携わることになったばかりの向島建だった。

「僕がスカウトの仕事について初めて目についた選手が久木野だったんです。2005年の2月、九州の新人大会を見に行ったときに、初めて彼のプレーを見ました。じつはこのとき、違う高校生を見るつもりで九州に来たんですが、その選手を吹き飛ばしながらドリブルでガンガン抜いていたのが久木野だったんです。チームとしてはあまり強くはありませんでしたが、そのなかで彼は光っていました。技術がしっかりしている上に、何よりも動き出しのタイミングが素晴らしい。DFの嫌なところに飛び込んでいくテクニックをすでに身につけていました。ボールのもらい方や感覚が自分の現役時代のプレーと似ていたし、高校生でそこまでできる選手はなかなかいない。スピードがあるし、左右両足のシュート力もある。すぐには難しいでしょうが、本人の意識次第で化けるんじゃないかと思いながら彼のプレーを目で追っていました」(向島)

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 全国大会に出場していない選手が高校を卒場してプロに入るのは無理と諦めかけていた久木野に、サッカー部の監督を通じて『Jリーグのクラブで練習をしてみないか』という話が届く。九州の新人大会以降、彼をマークしていた唯一のクラブ、川崎フロンターレからの誘いだった。

「大学への進学を考えていた時期でしたが、せっかくプロの世界に触れることができるんだからぜひチャレンジしたいと監督にお願いしました」

「高校の監督や先生と話をして、ただサッカーがうまいだけじゃなくてキャプテンを務めるだけの人間性も持っているし、学校の成績も優秀と聞きました。大きな舞台に出ていないので他のクラブはノーマークの選手でしたが、これはもしかしたらいけるんじゃないかと。プロのサッカー選手として成功するためには、普段の生活での心構えも必要です。久木野本人とも話をして、九州人らしく純朴な性格でサッカーに打ちこんでいるなという印象を持ちました。ただ、高校生は大学に進学するという選択肢もある。1人の人間の人生を大きく左右することですから、彼の将来のことを頭に入れつつ、じっくりと観察して練習に参加しないかと声をかけたんです」(向島)

 2005年7月、久木野は宮崎から上京。フロンターレの練習に参加する。だが、いくらうまいからといっても、高校生がいきなりプロのサッカー選手と互角に渡り合えるはずがない。初めて触れるプロの世界は想像以上のレベルの高さだった。

「みんな体が大きいし、まったく自由にプレーさせてもらえない。周りとの動きも全然合っていなくて、自分の持ち味をアピールする以前の段階でした。まったく良いところを出せなかったし、プロは無理かもしれないと諦めていました」

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 久木野の実際のプレーを見た強化部はこの時点ではまだ評価をつけかねていたが、担当スカウトの向島の答えは「イエス」だった。

「初めての練習では彼の良さを出すことはできませんでした。でも、高校生がいきなりプロの練習に入っても、自分の持ち味を発揮することは難しい。プロのレベルの高さを知って、落ちこんで帰っていく選手が大半なんです。ただ、久木野は気持ちだけでは負けていませんでした。実戦形式の練習でガタイの良い箕輪とマッチアップしても怖がらず、逆に険悪なムードになるほどの激しいプレーでやり合ったんです。ただ練習後はお互いに冷静になって、『悪かったな』と箕輪が声をかけ、久木野も『すいませんでした』と謝っていました。そのとき、帰っていく久木野の後ろ姿を見ながら『あいつ、なかなかやるよ』と箕輪も話していましたね」(向島)

 久木野はわずかながらのチャンスを見事にものにした。全国的にはまったくの無名だった高校生は、フロンターレと仮契約を結ぶ運びとなった。

「中学校のコーチや高校の監督からは、『お前の筋肉のつき方だとこれ以上、身長が伸びることはないだろう。だから、もしプロに入ったときにFW以外の起用をされるかもしれない。いまのうちからいろんなポジションを経験した方がいいぞ』と言われて、トップ下やサイドでもプレーしていました。トップ下は攻撃の比重が高いので楽しかったですけど、サイドは半分ふてくされながらやっていた記憶があります。でも、いま考えると、それが生きているのかなって」(久木野)

5 2006年──。晴れてプロの世界に足を踏み入れ、期待と希望を胸に秘めて川崎にやってきた久木野。1年目はプロサッカー選手としてやっていくための基礎作りのシーズンとなった。

「フロンターレに入った当初は、プロのレベルにまったくついていけませんでした。紅白戦に出るとプレーに迷いが出て判断ミスばかりしてしまうので、正直なところ、パスがくるのが怖かったですね。こんな感じで本当にやっていけるんだろうかと不安になりました。実戦形式の練習よりもフィジカルトレーニングの方がずっと楽しかったです。でも、周りの人たちから『みんな最初は自分の力を出すことができない』という話を聞いて、結果を怖れずにおもいっきりプレーするようになりました。練習についていけるようになったのは、中断期間の函館キャンプあたりからだと思います」

 日頃のフィジカルトレーニングの賜物で、久木野の体はひと回り大成長。練習でも当たり負けすることが少なくなり、夏以降、目を見張るスピードでプロのレベルに追いついていった。サテライトリーグでも初出場を果たし、FWだけではなくトップ下のポジションもそつなくこなし、そのユーティリティープレーヤーぶりをアピール。シーズン終盤には出場こそなかったが、トップチームのメンバーに入るまでになった。

久木野 聡ORIHICA

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「じょじょに紅白戦で使ってもらえるようになってきてから、自分のプレーをアピールできるようになりました。サテライトリーグでもそれなりのプレーができたし、一緒に練習をしているトップチームがリーグ戦で上位に入ったことで、自分なりに手ごたえをつかんだプロ1年目でした」

 そしてフロンターレに入団して2年目の2007年。リーグ戦第5節で早くもトップチーム出場の機会が巡ってくる。優勝候補の一角であるG大阪とのアウェイゲームという大事な試合で、終盤の88分にマギヌンに代わり、トップ下で登場。出場時間が短くあまりボールに絡めなかったが、それでも2-2の緊迫したスコアで投入されたことに関塚監督からの期待度の高さがうかがえる。

「初出場で舞い上がってしまい、頭が真っ白になってしまいました」

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ORIHICA さらに続くAFCチャンピオンズリーグ・全南ドラゴンズとのアウェイゲームのメンバーにも入り、韓国遠征に帯同。出場こそなかったものの、グループステージを突破するための大一番をベンチで体感した。今後は攻撃的なポジションならどこでもできるジョーカー的存在として、メンバー定着を狙う。そして将来的には、本来のポジションであるFWで勝負をかける。久木野のさらなる成長を周囲の人々も願っている。

10「ここまで早く試合に出てくるとは予測できませんでした。正直なところ、3年ぐらいかかるかなと思っていましたが、本人の努力で先発出場を果たすところまできました。これも日頃のトレーニングの成果です。プロになって東京に出てきて、それなりのお金も入り、遊ぶ時間もある。そんな状況に置かれると、自分を見失って潰れてしまう選手がいるんです。だから本来の目標を忘れずに一生懸命やらなきゃダメだぞと話してきましたが、その言葉をしっかりと受け止めてくれています。
 久木野が一番輝くのはFWのポジションだし、本人ももゆくゆくはFWで勝負したいと思っているはずです。でも、いまは与えられたポジションで経験を積んで、まずは適応能力の高さをアピールしてほしいです。いまのフロンターレは実力のあるFWが揃っているので、調子が良くても試合に出られないときもあるでしょう。でも、そういうときこそ地道に練習に励む姿勢が大事です。彼はまだ2年目、まだ壁にもぶち当たっていません。今後は攻撃の選手としてゴールに絡む動き、そしてフィニッシュの精度を高めて、自分だけの『武器』を作ってほしいです。せっかくこのスピードで成長しているんですから、気持ちを切らさず自信を持ってプレーしてほしいですね。周りが何をいおうと、最終的には本人の頑張りがなければいま以上の進歩はありませんから」(向島)

 伸び盛りの若い選手が必ずぶつかるというプロの壁。その壁を乗り越えた者だけがレギュラーの座をつかみ、一流と呼ばれる選手へと育っていく。彼もいずれは壁に直面するときがくるだろう。そこでもがき苦しみながら壁に手をかけたとき、その先には新たな道が開けている。

「いろんなポジションで試合に使ってもらえるのはありがたいこと。でも逆を返せば、自分はガナさんやテセさん、クロさんのような特徴的なプレーがない。まだまだ足りないところだらけなので、全体的なレベルを上げつつ、どん欲にゴールを狙っていきたいです」
(敬称略)

 [くきの・さとし]
得点感覚に優れ、絶妙のタイミングの飛び出しから、左右両足で正確なシュートが打てるストライカー。2年目の今季、虎視眈々と出場機会を狙う。1987年4月16日生まれ、宮崎県宮崎市出身。173cm、66kg。
>詳細プロフィール

www.orihica.com

ORIHICA's FASHION NOTE

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トップス

ポロシャツ
5,040円

インナー

カットソー
1,995円

ボトムス

ホワイトデニム
7,140円

オリヒカ担当者から

今回は夏のマリンスタイルです。このポロシャツは一見ベーシックですが、前立てにパイピングを施し、スキッパー風のデザインになっています。インナーにはちらっとボーダーTをコーディネイトすれば今季流行のマリンスタイルの完成です。久木野選手は白いパンツを履いたことが無かったらしいですが、大丈夫ちゃんと似合ってましたよ。

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