2007/vol.12
優しい笑顔と穏やかな話し声。ひとたびピッチに立つと、左サイドをトップスピードで
駆け上がる。私たちは、まだ彼の100%の姿を目撃していない。
だからこそ、その姿に期待がやまないのだ。
彼の名は、フランシスマール。
2007年2月3日。
川崎フロンターレに激震が走った。期限付き移籍で獲得した左サイドの今季最大の目玉とされたフランシスマールが怪我を負ったのだ。コンサドーレ札幌との練習試合、わずか開始1分でGKと接触して左ひざを負傷してしまったのだ。
境トレーナーが、そのときのことを振り返る。
「触ってすぐに内側じん帯は傷めてしまったのはわかりました。ヒザの曲げ伸ばしも難しい状態で、前十字ももしかしたらダメかなぁと思いました。前十字じん帯断裂はスポーツ選手にとっては一番大きいケガとも言えるし、治療にも最低でも半年以上、時間がかかります。だから祈るような気持ちでした。ただ、本人には前十字のことは川崎に戻ってきちんとした検査をしてから話したほうがいいだろうと思って、『帰って先生に検査してもらおう』とだけ伝えました」
折りしもキャンプ最終日のことだった。フランシスマールは車椅子で空港に移動し、そのまま病院に直行した。元気いっぱいに来日したときには思いもよらぬ姿だった。川崎に戻りMRIを撮った結果、左ひざ前十字じん帯断裂及び内側側副じん帯損傷と診断された。全治6〜8ヵ月とも言われる重傷だった。そのとき付き添った沢田通訳によると、フランシスマールはなかなか自分の身に起きたことを信じられずにいたという。
「本人は、それほどヒドくないと思っていたようでした。だから、先生から診断結果を言われたときは落ち込んでいましたね。ヒザを曲げようとして、自分はたいしたことないんだと説得しようとしていたのかもしれません。でも実際は、オペが必要な大きな怪我だったんですね」
フランシスマールは、その後、川崎フロンターレを志半ばで一時離れ、手術のためブラジルに帰国した──。
フランシスマールは、ミナスジェラエス州ホデイロに生まれた。ホデイロは人口11万5千人ほどの小さな田舎町で、家具職人の父、母、フランシスマール、妹、弟の5人家族で暮らしていた。ブラジルのほとんどの少年と同じように、物心がついたときにはボールを蹴ってストリートで遊んでいた。サッカーに熱心だった叔父さんが、ボールをプレゼントしてくれたからだ。寝ても覚めても、文字通り24時間サッカーばかり考えている少年だったという。
「小さい頃の僕は、いたずら坊主だったよ。とにかく、おじさんや友だちといつもサッカーをやっていた。ずっとボールと一緒にいて、朝からボールを蹴っていたし、寝るときもボールを離さなかった。だから、夢でもサッカーをしていたぐらいだよ。友だちと待ち合わせをしてサッカーをやることが本当に楽しかったし、サッカーをやれば友達もたくさんできた。そういえば、学校にしのびこんでサッカーをしていて怒られたこともあったよ。それも何度かね」
フランシスマールは本当に楽しそうに、そして少し照れくさそうに幼い頃の思い出を語った。もちろん、彼がその頃夢に描いていたのは、プロサッカー選手になることだった。1994年、アメリカワールドカップが開催されたとき、10歳だった彼は、ブラジルの優勝に興奮。ロマーリオとベベットが憧れの人だった。
「ロマーリオとベベットのプレーには影響を受けたよ。やっぱりゴールを決めるは大好きだったから。ディフェンスに戻らないでゴールばかり向いていたから叱られることもあった。だって、ロマーリオやベベットになりきっていたからね。テレビを観ていると、いつか僕もああいう選手になりたいと思っていたけれど、まだまだ大人の世界に映っていたから、本当に夢のまた夢という感じだったんだ」
学校に通いながら、ホデイロにあるアマチュアサッカークラブに入っていたフランシスマール。当時、影響を受けたのは、サッカーボールをプレゼントしてくれた叔父さんだった。実は、フランシスマールはもともと右利きだったのである。それを「左利きならイチかバチか化ける可能性がある」と考えた叔父さんから、左足でのキックを徹底して練習するように薦められたからだ。「ずっと練習を続けているうちに、左足のテクニックのほうが右足よりも上手になったんだよ。いまでも叔父さんに会うと、プロ選手になれたのは叔父さんのおかげだね、と言われるけど、本当にそのとおりなんだ。右利きのままだったら、いま僕はこうしていられたかわからないよ」
年に1度、12月になるとホデイロ市内ではサッカーの大会が開かれた。この大会の特徴は、オフシーズンに入っているプロ選手が数人参加できること。フランシスマールのクラブにもプロ選手たちが参加してくれた。そこで、彼らの技を盗んだり、アドバイスを受けたフランシスマールは確実にテクニックを磨いていった。
「彼らの意見は的確だからね。指示をしてくれるし、ポジショニングなんかは自分でも真似てみたよ。年に1回のことだったけれど、本当に楽しかったんだ。教えてもらったこと、自分で盗んだことを確実に自分のものにしていく。その繰り返しが大事なんだよね」
数学が好きだったフランシスマールは、サッカーの戦術を覚えていくことに共通性を見出し、パズルのようにはまっていく感覚を早い段階から覚えていった。
「数学とサッカーの戦術はつながりがあると思う。考えることがひじょうに大事だということもね。なにかを解くということも似ていて、サッカーの戦術においてもタイミングとか枚数を考えて、ここでブロックしようとか、攻めに出ようということを考えるからね。そうやって理詰めで考えて答えを出していくものが僕は好きなんだよ」
ホデイロでサッカーを続けていたフランシスマールは高校卒業後、2002年にミナスジェラエス州の首都にあるアメリカMGのユースチームに加入する。プロへの階段を登りはじめた。このとき、スイスのトーナメント大会で優勝、ドイツでは準優勝。地方のミナ州選手権でも優勝し、フランシスマールは得点王に輝いた。華麗なる戦績を残して、2004年にアメリカのトップチームで契約をした。
プロ契約を果たすまで、順調にとんとん拍子で歩んできたかのように見えるが、実際はそう簡単な道のりではなかったという。18歳で結婚し、息子が生れていたのだが、若い結婚は金銭的にも厳しく、多くの人の支えが必要な状態で、幸せな結末を迎えられなかった。
「プロ入りまでの道のりは簡単そうに見えるかもしれないけれど、そこまでは大変なことの連続だった。いろんな人に力を貸してもらったし、言葉では表せないぐらいの苦労も人の恩も感じました。もちろん、家族の支えもあったからプロという道を切り開くことができました。子どもが生まれたときは、まだプロ選手になっていなかったのでお金もなかったし家族とも離れて暮らしていたので会いたくても会えなかった。結局、1年半ほどで別れることになりました。プロ選手になることっていうのは、本当に狭き門だと思う。僕の仲間でも8歳から20歳までずっとプロになるために努力をしていた友人がいたけれど、ある日『君にはプロは無理だ』とつきつけられてしまった。それが、現実なんです。そこまでの10年間いくら努力してもプロになれる保障なんてないのです。ただ、自分を信じるしかない。幸い僕には自分の努力と両親から与えてもらった身体能力のふたつがありました。だからプロのスタートラインに立てた。でも、プロになってからも安い給料からスタートして家族を養うだけのお金もなかったし、困難なことはたくさんありました。でも、生き残っていくために壁を乗り越えてここまでやってきたのです」
彼の腕には、息子の名前が刻まれている。遠く離れている家族の存在は、フランシスマールに勇気を与えているのだ。
2005年、フランシスマールはビッグクラブのクルゼイロに移籍。背番号7番をつけ、レギュラーとしての地位を揺ぎないものにしていた。そして、2007年、フランシスマールはフロンターレからのオファーを受け取った。彼のもとには、フロンターレ以外にもパルメイラス、フルミネンセ、サンパウロと名だたるチームからもオファーが届いていた。しかし、フランシスマールは極東から届いた知らせにすぐに飛びついた。
「ブラジル人選手にとって、海外でプレーするということは夢なんだ。日本の川崎フロンターレというチームからオファーがあると聞いて、このチャンスを逃さないようにしようとすぐに決めました。実際に日本に来てみて環境もいいし、チームも素晴らしいしこの決断は間違ってなかったとすぐに確信できたよ」
フランシスマールのブラジルでの出場試合をDVDでみたチームスタッフによると、あまりのスピードの速さにまるでDVDを早送りしているような衝撃を受けたという。同じくDVDをみた久野智昭氏にも印象を聞いてみたところ、「左サイドやトップ下で試合に出ていましたけど、とにかく攻撃力が光っていましたね。スピードが速いしドリブルで自分で仕掛けてセンタリングをあげたり、自分でゴールまでいける。左サイドも真ん中も両方できますしね。90分のなかで、目立つシーンが何度もありましたよ」と語った。
それだけにキャンプでの突然の大怪我に、フランシスマールは戸惑いを隠せなかった。でも、起こってしまったことは覆せない。帰国後すぐに、ブラジルでも有数のヒザ治療における権威によって手術が行われた。腿裏の筋肉の腱で人工じん帯を造り、左ひざの骨に埋め込む手術は無事成功し、1週間が経過する頃には松葉杖なしで歩いていた。リハビリの環境は申し分なかったが、やはり気持ちを上向かせることは難しいことだった。周囲の人たちに支えてもらって、フランシスマールはなんとか辛いリハビリをこなしていたという。
「フロンターレに来て、みんながとても僕に期待してくれているのはわかっていました。それなのにすぐにケガをしてしまって、自分でも大きなケガははじめてで方向性を見失ってしまったし、悲しかったです。ブラジルに帰って手術をし、それから1ヵ月は、ヒザを曲げるための辛いリハビリが始まりました。何人もの力でヒザを無理矢理に曲げるので、それはもう痛くて毎日泣いていました。でも、家族が何度も来てくれて『あなたならできるから頑張って』と励ましてくれたり、友だちも支えてくれた。だから続けられました。何度もサッカーをやめようかと思ったけれど、『まだできるよ』という言葉を信じて乗り越えることができたんです」
5月26日(金)、ヨーロッパを経由して3日かけて来日したフランシスマールは、成田空港から麻生グラウンドへやってきた。赤いTシャツとジーパンに身を包んだフランシスマールは、2月に会ったときよりもほんの少しふっくらしているように見えたが、元気そうな姿に安心した。
スタッフに呼ばれてグラウンドに降りていった彼をチームメイトたちは待ち受けていた。関塚監督から「リハビリ頑張って。復帰を期待している」と声をかけられ、それから寺田周平を筆頭にひとりずつ近づいて握手をする。練習後、フランシスマールを取り囲んだ輪から、拍手が聞こえてきた。そして、さっそく記者たちにも囲まれた。
「1年ぐらいはサッカーができないのではないかと思ってた。8ヵ月かかると言われていたのを3ヵ月で復帰できたのは自分の力だけじゃなくて一流の先生たちがやってくれたから。いろんな方法で早く復帰できるように努力をしてくれた。先生たちにはいつも感謝しています。3ヵ月でここまで来られたのは奇跡的なことみたいですから。ボール以外のアジリティーはすべてやっています。自分の気持ちとしては明日にも復帰したい」と前向きなコメントを残した。ブラジルでのリハビリの合間には、フロンターレの試合のニュースをインターネットでチェックしていたという。
「ジュニやマギヌンとも電話で話したりしていました。日本サッカーは非常にスピードあるサッカーで驚いたので、そういうのに慣れなくてはいけないなぁなどとニュースをみながら考えていました。ブラジルはリズムがあるサッカーをするけれど、日本はとにかくスピードが早いから」
もちろん、日本で応援してくれている人たちのこともリハビリの励みにした。翌日の大宮戦には、試合前の等々力競技場で紹介され、立ち上がってサポーターに挨拶をした。サポーターは「ようこそ、フランシスマール」と横断幕を掲げた。本人が読めるようにポルトガル語で。フランシスマールは、いつものはにかんだ笑顔で手を振ってその声援に応えた。温かく迎えてもらい感激したという。
「日本で待っていてくれたみんなの支えがあったから自分も戻ってこれた。チームメイトたちもサポーターも温かく迎えてくれて本当にありがたかった。やはり恩返しは結果で残さないといけない。自分のベストを尽くしていきたい。フロンターレは、全員がすごくいい選手。レベルが高いし、それはレギュラーだけじゃなくてサブに入る選手もしっかりした気持ちを出せている。仲間という意識が強い素晴らしいチームだと思っています。ピッチの外でもとってもフレンドリーだしね。僕は、いまフロンターレにいられることをとても幸せに感じています」
そして、地道なリハビリを続けていたフランシスマールは、徐々にボールを使ってのトレーニングをはじめ練習に参加し、紅白戦のメンバーにも入るようになった。ミニゲームでは、何度もゴールを決めるなど、その得点感覚も少しずつ戻ってきていた。復帰は、タイミングの問題だった。
8月18日(土)、清水エスパルス戦にメンバー入りを果たしたフランシスマール。関塚監督もトレーニングのなかで少しずつ手ごたえを感じていた。
「フランシスマールは、瞬間的なところではいいところを見せてくれている。あがってきていると思います。片鱗をトレーニングのなかで見せている。スペースがある時の方が恐いという印象をもちましたね」(8月9日・関塚監督)
清水戦、67分に村上に代わってピッチに立ったフランシスマールは、得意の攻撃でチームを救おうと気合を入れてピッチに入っていった。ときおり、思い切った攻め上がりをみせたが、決め手となるゴールは生れなかった。コンビネーションは、これから徐々にあがってくるだろうし、フランシスマールが言うように試合のリズムにもすぐに慣れていくだろう。
その証拠に、翌日の麻生グラウンドで行われた筑波大学とのトレーニングマッチでは、先制ゴールをあげたのはフランシスマールだった。鈴木達矢からのクロスボールに合わせるように中に入っていきワントラップして左足でシュートを決めたのだ。
「次は、大事なガンバ戦があるからね。そのためにも一生懸命やりたい。きのうの清水戦ときょうの練習試合に出たことで、少しずつリズムに乗れるようになったことを実感している。コンディションは大丈夫です。あとは、試合に慣れていきたい。努力してトレーニングしながら地道にやっていくしかないと思っています」
我々が、フランシスマール完全復活を目にするのも、もう間もなく。左サイドをカモシカのように疾走し、ゴールへと突き進んでいく姿が観られることだろう。
「自分の特徴、見てほしいのは負けず嫌いなところ。そして、スピードで突破していくところ。エリア内に入っていきゴールを常にめざします。チーム戦術を理解しながら、自分のよさやスタイルも出していきたい。みなさん、期待しくてください。それから、僕の夢、そして目標は、優勝すること。チームの波に一緒に乗って、フランシスマールがいたんだっていう結果を残したい。ケガをしたことはショックだったけれど、その壁は乗り越えてきました。今度は、みなさんに結果で何かを返す番です。期待を裏切らないように満足できるサッカーをみせていきたい。そして、最後には優勝をプレゼントしたいと思っています」
ブラジル国内でも有数のスピードを活かした突破が魅力の左サイド。ケガから復帰し、待ちに待ったサポーターの前にその姿を現した。1984年4月18日生まれ、ブラジル出身。愛称は、チマル。
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