2007/vol.13
■落合正幸のサッカー観
落合正幸の話を聞いていると、とにかくチームの目線に立つ発言が多い事に気付かされる。たとえば19節のアウェイでの千葉戦での話である。
覚えている方も多いと思うが、この試合。落合のミスによって、フロンターレは先制点を奪われてしまう。その落合に変わってピッチに立った大橋正博の活躍でフロンターレは逆転に成功するが、その時落合はベンチから飛び出して喜びを表現していた。そんな試合後に話を聞いたが、自分のミスの言い訳は一切することはなく、逆転勝利に持ち込んだチームメイトに対する感謝の言葉を繰り返していた。
プロ選手というのは本来強烈な個を持っていて当然である。それは個人事業主としてほとんどの選手が単年度ごとにチームと契約を結ぶという厳しい世界で戦っている以上仕方のないことである。そうであるにもかかわらず、なぜ落合という選手は自分の事を棚に上げ、チームを最優先させるスタンスを取るのだろうか。
■遊びだけのサッカーから厳しさを持つサッカーへ
兄に影響され、小4の時にサッカーを始めたという落合は、とにかくサッカーが好きだったのだという。
「楽しかったですね。練習がない曜日もみんなで集まって遊びでサッカーやってましたから」
サッカーとそんな付き合いが出来たことが良かったのだろう。メキメキと頭角を現した落合は、小6の時には県選抜に選ばれるまでに上達。「楽しむ」というサッカーとの接し方は中学に行っても変わることはなかったという。
「中学校は朝練がすごく早くて6時ちょっと過ぎにはやってました。でも楽しんでやってましたよ。練習と言うよりはミニゲーム主体で、午後の練習よりもそっちの方が楽しかったですね」
熊本県内でサッカーをする中学生にとって大津高校への進学はある意味必然的なものであり、そこに疑問の余地はない、というと大げさになるが、いずれにしてもサッカー少年にとって大津高校が憧れの存在である事に間違いはなかった。そうやって入学した大津高校で平岡和徳という指導者に出会い、サッカーに対する考え方が変わったのだという。
「県選抜の選手がみんな行くようなレベルの高校だったので、みんなすごく向上心を持っていて、サッカーは楽しさだけではないんだ。厳しさもあるんだ、という事を学びました。考え方が変わりました」
落合のサッカー観のベースは熊本での9年間にある。楽しさと厳しさと向上心。そのどれか一つでも欠けていたら、Jリーグで活躍する今の落合という選手は生まれなかっただろう。好きだから続けられる。続けられるからうまくなる。という中学生までの6年間のサイクルの中に入ってきた高校でのハイレベルな戦いにおける厳しさ。その経験が落合をさらに成長させた。
「ぼくの勝手な解釈かもしれませんが、基本技術の大切さを痛感しました。小中学校時代は足先だけのテクニックがうまくて勘違いするところもあったんですが、もっと高いレベルでの正確性やどんな状況でも同じようにプレーする技術の必要性を見直すことになりました」
■プロの世界へ
熊本の片田舎の高校生がプロの世界へと一歩を踏み出す手伝いをしたのは、柏レイソルだった。強化部の担当者と話をするまでは柏というチームについてほとんど知らなかったという落合は、実際に練習に参加する中で契約を決意。その直後に柏は99年のナビスコ杯を手にしていた。柏の黄金時代の幕開けだった。
「そんな(タイトルを取った)柏から誘われて、それは自信になりました。ただ、いざ入ってみて壁に当たりましたね。みんなホントにすごかった。通用するものはない、というとおかしいんですが、全部のレベルを上げていくしかなかったですね」
1年次から試合に出て活躍した高校時代とは違い、柏では長い下積みの経験をする。ただそれも仕方のないことで、落合が入団した年の柏は2ステージ制の影響もあって3位には甘んじていたが、年間の通算勝ち点では首位に立つほどの戦績を残していた。さすがにそんなハイレベルなトップチームの中で試合に出るのは難しい。紅白戦にすら出られない事も珍しくはなかったが、そんな日々の中でも落合は腐ることなくがむしゃらにサッカーに打ち込んだ。
身近に能力の高い選手がそろっていた環境が良かったのか。徐々にプロのサッカーにも慣れ始め、気持ちが落ち着くようになった時。ふとサッカーをしていないことに落合は気付く。それがプロ入り5年目の04年シーズンの事だった。そしてそれを気付かせてくれたのは、サガン鳥栖からのオファーだった。
「試合をしたかった。まあ、鳥栖に行ったからといって試合に出られるわけではないんですが、迷いはなかったです。即決でした」
行く前に鳥栖の状況は聞かされていたと言うが、実際に鳥栖に移籍してみると想像以上に厳しい環境だったという。サッカーをするだけでよかった柏時代とは比べものにならない環境ではあったが、試合ができることの喜びはそうした逆境を吹き飛ばすのに十分な力を持っていたとも言う。
「洗濯とかも自分でやるし。高校サッカーと同じような環境でした。でも試合に飢えてた分、気にはならなかった。毎試合厳しいのは厳しいんですがぼくは全然大丈夫でした」
ただ、そんな鳥栖での2年目は順調なシーズンとはならなかった。リーグ戦開幕直後の6節に退場の判定を受けるなどで5試合の出場停止。さらに追い打ちをかけるように7月には足首を負傷し、満足にプレーすることが出来ない状態に陥ってしまう。結局完治したのは翌年の6月のこと。
「そう考えると鳥栖には申し訳なかったと思っています。それは監督、コーチも含めて。チームメイトもそうですね」
紅白戦でも控えだった柏時代とは違い、主力として戦いその実力を認められる一方で、手術でも原因が特定できなかったというケガでシーズンを棒に振る。ただ、そんな鳥栖でJ2を経験したことはムダではなかったという。
「サッカー観じゃないんですが、こういうサッカーもあるんだという事がわかったというか、考えさせられました」
■波瀾万丈のサッカー人生
思えば落合は数奇なサッカー人生を歩んでいる。Jリーグで優勝争いを繰り広げる黄金時代の柏を経験する一方、そのチームが調子を崩し、低迷し歯車が狂う姿も見ている。そしてゴタゴタの続いていた鳥栖に移籍し、その中でJ2でのサッカーを経験。痛みの理由がわからないケガを経験し、長期間の治療を受けた。そうした経験の中でも辛い思いだっただろうと想像したのが昨季の柏でのシーズンである。
J2へと降格した柏から復帰を打診され、受諾。ただ鳥栖で受けたケガは開幕時点でも完治には至らず、復帰は6月までずれ込んだ。そしてサッカーが出来るところまで足首が回復した時にはチームの形はある程度できあがっていた。
「チームが勢いに乗っていましたからね。半分までは行っていないですが、シーズンは進んでてチームもある程度固まっていましたから。だからその中でどう自分をアピールしていこうかと。それだけを考えていました」
すでに出来たチームの中に無理矢理割って入るのではなく、その枠組みを尊重した上でどうアピールするのか。チーム思いの落合ならそうするだろう、という振る舞いだった。そうした中で落合に与えられたのはボランチではなく最終ラインでのポジション。思うところはあったと言うが、ただその経験はプラスになったとも言う。
「サッカーのスタイルも新しかったですし、そこで得たものはありました。もちろん、ボランチでやりたいという気持ちはありましたが、サッカーの幅を広げるためにはいろいろなポジションを経験するのはいいという思いもありました。いずれにしても1年ほどケガをしてたので、サッカーが出来る喜びが大きかったですね」
試合に出られる喜びを噛みしめ、壊れていたサポーターとの関係が修復された素晴らしいスタジアムを経験。そして昇格争い。しかし全ては順風満帆というわけにはいかなかった。51節を終え、最終節に昇格の行方が持ち越された試合後に、落合は翌年の契約の意思がないことを告げられる。
「ホントにチームとしては大事な一週間になる。すごく大事な練習なんですよね。そこでどうチームに貢献するのか。変な態度で練習したらチームに迷惑をかけてしまう。それで頭の中を整理して、一緒に戦力外になったウノ(宇野沢祐次・現福岡)やGMと話をしました。GMは気持ちが入らないのは仕方ない、という事を言ってくれたんですが、でもやっぱり振り返った時に入団してお世話になったチームだから、という風に思いました。最後にここでそっぽを向いて練習に出ないという形で悪影響を及ぼすようじゃ何も残せないので。
だから翌日の練習のアップの時に『このチームでもうできないんだ』と思いながら最初の一周は走りました。まわりも知っているし若干気を遣うので、だからあえて声を出しながら、ウノと二人で先頭を走ったり。それは空元気だってのはばれるんですが、それくらいしか出来ることはないので、試合までは頑張ろうと二人で話してました」
そうやって迎えた最終節で柏は無事に昇格を決め、そしてオフに入るチームメイトを尻目に、トライアウトに向けて練習を始める。
「トレーナーとかが親身になって付き合ってくれて、他のトライアウトを受ける選手と一緒に練習をしていました。楽天的でもなかったですが、追いつめられたという心境でもなかったです。その時の心境は難しいですね」
大阪まで自費で移動し、実際にプレーした3〜4日後。フロンターレから連絡が入ったという。
「正式に連絡をもらったのはフロンターレが最初でした。その時点ですぐに決めました。ぼくも高いレベルでやりたかったですし。それで日を改めて会ったんですが、ぼくは迷いはなくて、その場でお願いしますということで。年内には決まってました。それは良かったです」
■フロンターレで見えたもの
移籍したフロンターレで、初めて出た公式戦はACLのアウェイでのマラン戦だった。この試合直後のリーグ戦の神戸戦で連続出場。そこからコンスタントに試合に出続けてきた。去年2位になったチームでのプレーである。自信になっているのではないかと想像したが、相変わらず落合は謙虚に言うのである。
「今もそうなんですがレベルの高い選手ばかりなので、ホントに一生懸命付いていくというか、力は抜かないようにすることだけは忘れないようにしてます。ただ、その中で(自分のプレーの)ベースは崩さないように心がけてました」
そうやってプレーしてきた中で、チームに貢献できたのがナビスコ杯の甲府戦だった。同じ中盤の中村憲剛が代表招集で不在。マギヌンもケガが癒えない状況で任された2試合の先発はプレッシャーになった。
「そいう状況の中でチームの中で何が出来るのかを考えないと、ダラダラやっていたら90分終わってしまう。アグレッシブに行かないとダメですし、やっぱり負けられないというのもありました」
アウェイでの激戦を落として迎えた2戦目。テセのゴールから延長にかけてチームは一つになっていたと言うが、そういう状況でも落合の冷静さに変わりはなかった。
「ああいう雰囲気というかトーナメントでの経験はなかなか味わえない。しかも台風の中たくさんのサポーターが来てくれたので良かったです。クロのゴールが決まった後は残り時間をどうするのかと考えてました」
準決勝へとつなぐという責任を背負ってのプレーだっただけに、とにかく勝ち抜ける事だけを考えていた。だからこそ勝った瞬間「うれしいというか安心しました。ホッとしました」と振り返る。
フロンターレを評して「いいチーム」と言い切る落合のチームへの思いがストレートに伝わってくるエピソードを最後に紹介しておこうと思う。これも本人にとって悔しい試合となるのだが、20節の横浜FM戦のプレーについてである。
横浜FMに先制されたフロンターレにとって、追加点は決して与えてはならないものだったが、落合のミスによって失点。結局この試合を落とすのだが、落合はこのプレーについても言い訳は一切せずにチームの事を考える発言をするのである。
「あの試合は結構拮抗してて、
その中でぼくの一つのミスで負けという事になってしまった。
ホントはぼくのミスなのに、チームが負けたと言われるのが
申し訳なくて。実際に試合を見ていない人は、
結果だけ見てフロンターレの調子が悪いと言う。
だけどそうじゃない。
だから、それが悔しい
ですね。チームが悪く
言われるのが悔しいです」
この試合を境にして24節時点で4試合、
落合はピッチに立っていない。
ただ、そのポテンシャルはナビスコ杯での
死闘で証明できている。このままシーズンが進む中で、
またチャンスはあるはず。そしてその時こそは、
チームに貢献してくれるものと信じている。
■落合の原点
常にチームやチームメイトに感謝の言葉を口にする落合の原点は、どこにあるのか。原稿をまとめながら考えてみたのだが、やはり熊本での9年間に落ち着くのだろうと思う。楽しみながら続けたサッカーは、チームメイトがいて初めて試合ができるスポーツである。「個人競技ではない」と話していた落合だが、まさにチームあってのサッカーという考えが染み付いているのだろう。そして楽しいだけのサッカーから厳しさを教えてもらった高校時代にかけて、謙虚さと、向上心と、学ぶという事を素直に受け入れる下地ができてきたのだろう。そういった経験があるからこそ、柏での下積み時代や鳥栖での経験。そして契約満了を告げられた後の柏での練習態度につながるのだろうと思う。
たとえ試合に出られないとしても、腐らずに全力で練習から頑張る、という姿勢は必ず若手選手たちにいい刺激を与えるはず。そして積み重ねてきたたくさんの経験が、チームにいい影響となって浸透しつつあるとも思う。そしてそんな落合のこれからに、期待したいと思う。
スラリとした体系と物静かに見える姿とは裏腹に、
内に秘めた闘志は誰にも負けない。対人プレーに強い、
守備能力の高いボランチ。
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