生き物が羽化や脱皮をするとき、「これからだよ」というサインを送るという。蛹(サナギ)だった黒津勝が自分自身で成長のサインに気づき、脱皮するまで──。
黒津勝は、最大の楽しみが訪れるのを待っている。
4年間のJ2での戦いを経て、いよいよ、まだ見ぬJ1の舞台へ挑戦するときが、もうすぐそこに来た。
「もっと厳しいですよね。絶対。J2とは全然違うと思うし楽しい反面、厳しいはず。チームとしては絶対に1年で落ちるようなことがあってはならないし、優勝争いしなくちゃ。個人的には、また成長できる場面が来るのかなぁって楽しみです」
ワンダーボーイと呼ばれて
2001年、黒津勝は花咲徳栄高校から川崎フロンターレに加入した。夢に描いたプロ生活がスタートを切ったが、はじまりは順調とはいかなかった。最初のメディカルチェックで左足の中足骨疲労骨折がみつかり、いきなりリハビリスタートとなってしまったからだ。
「手術がイヤだったしなるべく自然に治したいと思ったんですよね、最初は。気づかないうちに疲労骨折をしていたみたいで、もうせっかくサッカーやりたくて来ているのにってショックだったし腐ってましたね」
夏まで様子をみて手術に踏み切り、リハビリを経てやっとスタートラインに立った。
そこで気づきがあった黒津は自分を変えようと必死になった。失ってしまったチャンスを取りかえそうと自分を見つめなおした。練習試合でゴールを決めよう‐。とにかく結果を求めた。
「ある意味、よかったのかもしれないですね。自分の悪いところがわかって。これはいかんなって。もっと絶対にできるなって思ったし。ただ、最初のチャンスを自分で潰しちゃったから、そこから立て直して切り替えるのは時間がかかりましたね」
まず、周囲の意見に聞く耳をもつことを心がけた。それが最初のきっかけになった。
「素直に受け止めてひとつひとつ弱点を克服しようって思いました。シチュエーションによってプレーも変わるわけだし、日々考えて意見を聞いて『こういう状況の場合は、こうだな』っていうのをひとつひとつ考えて。昔は周りが見えてなくて、そういうのがわかんなかったんですよ。自分自分ってなっちゃってて、周りとの連携とかがダメだった。いろんな角度からモノが見られるようになったことが一番変わったところですね。自分に一番足りなかったところだと思うし、そうやって結果がついてくるようになった」と言って、続けた。
「やっぱり、自分で気づくんですよね」
昔の自分にアドバイスをするとしたら、なんて言う? と聞いてみたら、黒津は即答した。
「考えろ!ってことですね」
考えるということは、つまりプレーの選択肢のなかからその状況で最適なものを瞬時に選び取る作業だった。ピッチに立ったときに見える周囲の風景がまるっきり変わった。
「前だったら、ひとつダメだったらもう他に選択肢がなかった。それが、考えることができるようになって、これがダメでも次の選択肢はこうだなって切り替えができるようになった」
10月23日対仙台戦。1対1で試合が進んだ後半35分、交代出場で入っていた黒津がマルクスからのパスを受け、ゴールライン際で冷静に中をみた。「まだ近くにジュニーニョひとりしかいなかったし、わざとキープしました」という黒津の好判断が、中村が走りこむだけの「間」を生み、走りこんだ中村にタイミングよくボールが渡ると、ミドルシュートが仙台ゴールへと突きささった。
「練習どおり」(中村)というこのゴールのアシストに黒津も満足気だった。ボールをためて首を左右に振り、味方選手を確認する。黒津の進歩が現れたプレーそのものだった。
心に重く響いた言葉
話は、9月23日対山形戦に遡る。フロンターレは昇格に王手をかけてから産みの苦しみを味わっていた。11日、大宮に0対3と完敗。翌週の湘南戦には勝利したが、他チームの結果により持ち越し。迎えた山形戦は、今度こそと意気込んだ一戦だった。前半マルクスが相馬のクロスに合わせて先制する。しかし、79分に林、86分に大島に決められ逆転負けを喫してしまう。等々力が静まり返った。
黒津は69分に交代出場をしていた。2度の大きなチャンスがあったが、ゴールを割ることはできなかった。翌日、全体練習が終わったあとに、GK吉原とふたりで黙々とシュート練習を繰り返す黒津の姿があった。
「もうねー、次がんばるしかない。終わったことだし、切り替えてやるしかないから。1本目は狙いすぎてGKに弾かれて、2本目は絶対入れなきゃってちょっと力んでしまった。ジュニが2本ともすごいいいパス出してくれたのに…」とクラブハウスに帰る途中、悔しさを秘めて語った。
「山形戦は、やっぱり悔しかった。監督からもいろいろと指示をもらってピッチに入って、ジュニーニョからうまい具合にボールがもらえたし最後の決定的な場面で…。次の日、帰るときに、ちょうど監督が駐車場で車に乗っているところで、『おい、クロ』って声かけられて近くに行ったらね、窓がウィーンって開いて言われたんです。『試合を生かすも殺すもフォワード次第だぞ』って。それがもうショックだし、いい意味の重さがあった。そのときはグサッときたけど素直に受け止めなきゃって」と黒津は左胸に手を当てた。
「フォワードは試合を決めることができる一番近くにあるポジションだ」とは確かに関塚監督から聞いたことがある。
「だからこそ、『生かすも殺すもフォワード次第』なんです。監督もフォワード出身だからいろんな経験していると思うし、やっぱり山形戦は流れが変わって逆転されて試合を殺しちゃったと思うから、この言葉は、これからサッカーやっていくうえでずっと心にあると思う。いい言葉ですよね。いいこと言ってもらったなぁって感謝しています」
その後、10月2日の対横浜FC戦に交代出場した黒津は、チームの勝利を決定づける4点目を左足からたたき出し優勝の喜びを味わった。
「あれは会心のゴールでしたね」とニヤリと笑った。
フォワードとしての生存競争
ジュニーニョ、マルクス、我那覇、そして町田とFWのポジション争いは熾烈を極めた。我那覇に代わって交代出場する場合、マルクス、ジュニーニョに自分のよさを理解してもらうことで連携を深めてきた。
「とにかく、前に行け!ってふたりには言われてましたね。ボールをさげんなって。やっぱり自分のよさはスピードだと思うし、裏に抜けることですよね」
チームの紅白戦で、黒津はBチームのフォワードとして出場する場面が多い。寺田、伊藤宏樹、箕輪といったDF陣と対峙することは、本番と遜色ないトレーニングの場となった。
「みんな、すごいですからね。練習していてワクワクしますよ。宏樹さんは1対1になるとじりじりと徐々に間を詰められて一歩が速い。周平さんはリーチが長いから、抜いたと思っても足がくる。それにミノさんも佐原さんも強いでしょう。理想は、トラップで一瞬にして抜くこと。トラップで抜けて相手の前に入って置き去りにして、左足でドーンとシュートをうつ。これですね」
転機ともいえるシーズンを終えたいま、自分自身の成長について黒津はどのように感じているだろうか。
「まだまだ全然。ほんのちょっと、階段一歩です。やっぱり振り返ると、今年最初に出た2試合でなにもできなかったこと、あとは山形戦が悔しかった。悔しいっていうか情けなかった。でも、情けないって思っている自分がいたから、これからまだ成長できるかなぁって。自分で気づけたからよかった。いまは、どこまでできるか試されているだろうし、挑戦者ですよね」