2003年に来日したジュニーニョは、フロンターレ3年目のシーズンをJ1で迎えた。その間、ジュニーニョのゴールがチームを勝利に導く伝説を作っていた。
2003年3月22日の来日初ゴールから続いた、その偉大な記録は2005年4月3日、遂に潰えた。
不敗神話──。万博で行われた魔のロスタイムの末に敗戦した対ガンバ大阪戦に至るまで、足掛け3年に渡りジュニーニョがゴールした試合でフロンターレは負けたことがなかったのだ。ジュニーニョは、この敗戦を静かに受けとめていた。
「もちろん気づいていたけど、いつかは自分が点を取っても負ける日はくる。そういう心の準備はできていた」
それにしても、ものすごい記録である。ガンバ戦以前にジュニーニョが出場した試合数は84。そのうち71のゴールを決めた48試合で、フロンターレは38勝10分0敗という成績を残していた。
今年、ジュニーニョは来日3年目を迎え、遂にJ1の舞台に姿を現した。
開幕戦をアウェイの柏で迎えたフロンターレ。試合に出場していない柏レイソルの選手たちが、観客席から試合を見つめ、こう漏らしていた。
「ジュニーニョ、全然通用するな。すげぇな、あいつ」
確かに、ジュニーニョはJ1においても、自分の特徴を出せるだけの力があることを、わずか数試合で証明してしまった。
「J1はもちろんレベルが上がっているけど、問題ない。マークが厳しくなっているけど、それでもちゃんと点が取れてる」とジュニーニョは語る。
「ますます巧くなってるよね」というのは、ジュニーニョにパスを供給する中村憲剛だ。
「俺とジュニーニョの関係は、距離もパススピードも変わらないけど、ジュニの場合は、いくら速く出してもピタっと止まるから。けっこう思いっきり出してるんですけどね。それで、くるっと一瞬で回って前を向くと、『おお!』って思う。そこまではいままでと変わらないんだけど、シュートが巧くなってる。あとジュニはね、絶好調のときは球離れが早くて人をよく使う。低いところで玉離れが早いときは調子いいんだなって思う」
ジュニーニョの目から見てJ2とJ1の違いは、どこにあるのだろうか。
「それは、選手たちが最後まで諦めない気持ちを、より強くもっていることだと思う。最後の最後、ロスタイムになっても引き分けに持ち込んだり、勝利に結びつけるためにあきらめない。その気持ちの部分が違うと感じている」
フロンターレは、勝ち試合を引き分けたり、ロスタイムの失点で敗戦したり、「ゲーム運び」に苦心する展開が開幕からしばらく続いた。
「足りなかったことは、本当に細かいところ。集中しているか、あきらめていないか。もうちょっと狡さも必要だったし、勝っているならばキープしたりつないだりして、時間を稼ぐことも大事になる。自分たちが勝っているとき、負けているとき、その時間帯でいったいなにをしなければいけないか、ということが大事なんだ。フロンターレの選手はみんながんばっていた。でも、ひとりひとりがもうちょっとだけ力を出せば勝てるんじゃないか、という話をしたこともある」
ちょうどその頃、ジュニーニョはチームメイトを招いて自宅でシュラスコパーティーを開いた。「ジュニは『自分が点を取らなくてもチームが勝てばいい』っていつも言うけど、あいつはホントに大人だよね。チームのことをすごい考えてる」と長橋康弘は、その日のことを思い返した。このパーティーはジュニーニョにとってチームをまとめようという特別な意味があったわけではない。自然な発想から企画したものだった。
「もともとフロンターレは仲良しなチームだからね。でも、たまにはみんなで集まってご飯を食べたりすることって大切だと思うんだ。この日の食事は友人たちが全部用意してくれたんだよ。バーベキューとかサラダとかフェジョンとかブラジル料理をね。みんなおいしそうに食べてくれてうれしかった」
ガンバ戦での敗戦は、チームにとって課題が明確になり、ある意味「ふっきれた」利点もあった。前線の3人も守備を意識し、しっかり守り、そこから攻撃を仕掛けていく戦いへとシフトチェンジした。そして、4月9日第4節対東京ヴェルディ1969戦で初勝利を掴んだ。
「ヴェルディ戦は内容はそんなによくなかったけど、かといって他の試合は内容がよくても勝てていなかった。たとえ、内容が悪くても1対0で勝利できた。結果が大事なんだ」
ジュニーニョには揺ぎ無い目標がある。
「点を取ったりアシストしたりパスをしたり、チームが勝つためにグラウンドで精一杯やること。シーズンが終わるまでにフロンターレがトップにつけることができるように。いつも応援してくれるサポーターのためにフロンターレが強いチームでいることが大事なんだ」
そして、サッカーをやることは遠い母国にいる家族へ思いを届けることでもある。
「僕にはサッカーがあったから、海外でプレーをすることもできたし、両親に家を建ててあげたり、家族に楽な生活を送らせてあげることもできるようになった。結果を出すこと。それは家族のためでもあるんだ」