2009/vol.04
ピックアッププレイヤー:DF25/Yoshida,Yuki
去年の入団会見のスピーチが、強烈に印象に残っている。
「皆さん、こんばんは。ユースから昇格しました吉田勇樹です。僕自身、今年でフロンターレに入って7年目になりますが、歳をとって引退するまでフロンターレにいれるように頑張りたいと思います。フロンターレ愛は誰にも負けません。よろしくお願いします」
18歳ながら、臆面なく愛という言葉を口にしてクラブへの忠誠を誓った。ジュニアユースからの生え抜きとしては、クラブ3人目のトップ昇格となる吉田勇樹。彼がサッカーと出会ったのは16年前。そして、フロンターレとの出会いは、今から8年前にさかのぼる。
小学校
サッカーを始めたのは幼稚園の頃、キッカケは8つ上の兄の影響だった。小学生の兄が楽しそうにプレーする姿を見て、自分もいつの間にかボールを蹴っていたという。当時、身体が大きかった吉田は、小学生に交じってプレーしても目立った存在で、ポジションはバリバリのFWだ。小学校に上がっても背の順は常に後ろの方で、本人曰く「身体が大きくて、脚もメチャメチャ早かった」。キック力も並外れていたので、とにかくシュートを打てば入ってしまう。その驚異的なパワーが、“被害者”を出したこともあった。
「小学校の4年の時ですかね。休み時間にサッカーをやっていたら、GKをやっていた子が、僕のシュートで骨折しちゃった。あれはびっくりしました。シュートが強烈だったのか、その子の骨が弱かったのか分かりませんけどね。申し訳なかったです」
そんな吉田が所属した太尾FCは、強豪といえるチームではなかった。学校にある普通のクラブで、おおよそ優勝という言葉からは遠い。「楽しくやろう」をモットーとするチームだ。だが、吉田が6年生の時に迎えた最後の大会。本人たちの予想に反して、チームは快進撃を見せる。
「あの時は本当にうれしかったですよ。準決勝でライバルの大豆戸FCを倒して勢いに乗って、決勝で横浜SCつばさを倒して区で優勝しちゃった。初めての優勝だったので、小学生ながら嬉し泣きしました。でも、嬉し泣きをするのが恥ずかしかったんで、足を蹴られたのを言い訳にしちゃいましたけどね」
この大会で優勝すると、横浜代表として平塚市の大会に出場。湘南ベルマーレを2−0で破り、ここでも優勝を飾った。吉田はFWとして出場し、湘南から全2得点を決めている。「奇跡ですよ。漫画にできちゃうくらい」という試合だったそうだ。
そうして楽しく小学校時代を過ごした吉田は、中学に入るに当たりJクラブの下部組織入りを目指す。実は吉田は小学生の時、横浜F・マリノスのスクールに通っていた。その影響もあって、当時の好きな選手は小村徳夫、ジュニアユースの第一志望はマリノスだった。
「でも、落ちたんですよ。マリノスのセレクションに。1次は通ったけど、2次試験でダメだったんです。そこで、1回ユースへの道はあきらめようと思ったんです。でも、親がいろいろ調べてくれて、薦められたのがフロンターレのジュニアユースでした。本当に感謝してます」
マリノスのセレクションがあったのは10月。その翌月の11月から始まったフロンターレのセレクションは5次試験まであったが、吉田は1次の時から目立つ存在だった。セレクションを担当したひとりである森一哉コーチ(現ジュニアユースコーチ)は、当時の印象をこう語る。
「身体が大きくて、スピードもパワーもあった。身体能力が高かったですね。この子は残るだろうなと思った、2、3人のなかのひとりでした」
ジュニアユース
セレクションに合格し、晴れてジュニアユースに入った吉田だが、入団当初は自分のプレーに自信が持てなかったのだという。というのも、チームメイトたちの技術が、明らかに自分のレベルとはかけ離れていたからだ。
「ほんとにやばいと思いましたね。入った時はあんまりリフティングもできなくて、絶対俺が一番下手だと思いました」
身体能力では負ける気がしないが、とにかくあらゆる精度が違う。自分の未熟さを思い知らされ、サッカーを始めてから初めてショックを受けたのだ。このままでは試合にも出られない、とすら感じた吉田は、「この状況を何とかしなきゃいけない」とすぐに行動を起こす。
「危機感があったので、練習前に早くきてラダーを使ってステップの練習とかしました。リフティングもやりましたね」
小学校時代は、楽しみながらプレーすることがすべてだったため、技術的なトレーンニングは初めての経験だ。独自のメニューながら、本格的な技術練習を積むと、スポンジが水を吸収するように伸びていったという。
そうして技術と自信を付けてきた吉田は、2年の時、大きな転機に立つ。自分では想像すらしなかったDFへのコンバートである。本人は、「覚えてないんですよ。いつの間にかDFになってました」と語るが、これは当時ジュニユースの監督を務めていた森の方針だった。
「いろんなポジションをやらせることでプレーの幅が広がる。FWや中盤もやらせていましたが、ディフェンスの練習をしている時に1対1の巧さやスピードが目立っていたんです」(森ジュニアユースコーチ)
DFにコンバートされた吉田は、めきめきと頭角を現した。中2で県トレセン、関東トレセンと順調に進み、2年の終わりにはナショナルトレセンへ。さらに、ナショナルトレセンでのプレーが認められ、一気に世代別の日本代表にも招集された。もちろん、所属の川崎ジュニアユースでも存在感を示している。1年の時から2年のチームにも参加し、2年の時はほとんど3年のチームでプレーした。そして、最上級生の3年では不動のCBとしてチームを牽引していたのだが、吉田の成長を見てきた森コーチは、再び彼にアドバイスを与えた。
「本人はCBの方がやりやすかったと思うのですが、その頃から身長の伸びが緩やかになっていた。でも、スピードはあったし、将来的にトップに上がれる可能性も感じていたので、今後のことを考えたらサイドもできるようにしておいた方がいいと考えたんです」(森ジュニアユースコーチ)
吉田自身は、CBでのプレーに愛着を持っていたし、実際に抑えている実感もあった。だから、最初は嫌々やっていたが、SBでのプレーを覚えるうちに楽しさも分かってきた。「一番楽しいのは、サイドでの1対1。スピードを上手く落とさせて、隙を見つけて、身体をガッと入れて取る。ライン際で追い込んで、ボールを取るのがすごい楽しいんですよ。今考えれば、SB転向はいい決断でした。それがあったから、ここにいるかもしれない」
ユース
ユースに上がってからは、1年次からレギュラーを獲得し、3−5−2の両サイドを務めた。この当時からプロは意識していたが、「プロになれるかもしれない」という実感を得たのは高3の春。高1、高2と代表から外れ、「もう代表はないな」と思っていた矢先にU−18日本代表のドイツ遠征に選ばれたのである。そこで吉田は、「右SBでプレーしたんですけど、対面の選手が190㌢くらいあったんです。でも、ある程度やれた」。海外の同世代のチームとの対戦を通じて、確かな自信をつかんだという。
続けて招集された8月のSBSカップでは不幸にもケガに見舞われてしまったが、大会が終わってすぐにスカウトの向島から電話があった。内容は今でも覚えている。
「トップに上げることが決まったから、ゆっくりケガを直せって。ホッとしましたね。自分ではプロにいけるか半信半疑だったし、肩を骨折してからは、大学へ進む道も考えた。でも、やらせてもらえるならチャンスだと思って開き直ってプロへの道を選びました」
今までに経験したことのない大ケガに弱気にもなったが、プロへの道が開けたことで気持ちは一変した。半年後には、ひとりのサッカー選手としての人生が始まる。吉田の心は、希望で満ち溢れていた。
入団後
しかし、プロ1年目は、吉田にとって試練の年になる。アクシデントによるケガの再発、そしてU−19日本代表として参加したアジアユースでの敗退だ。
ユース時代に負った肩のケガは、懸命なリハビリの甲斐もあって入団時にはプレーできるようになっていた。だが、宮崎でのキャンプが終わり、麻生グラウンドで行なわれたFC東京とのシーズン前の練習試合で、完治していなかったことを思い知らされる。
「洋平(大竹/FC東京)にタックルに行ったら交わされて、肩から落ちてしまった。前にケガした時と同じような痛みだったから、これはやったなって。ほんと、ハアーってため息が出ました」
再びレントゲンを撮ってみると、肩の具合は吉田の想像したとおりだった。恐る恐る高木ドクターに尋ねると「手術しかないね」と告げられる。それが3月の終わりだ。
さらに、ケガから約6か月後。つらいリハビリを終えて徐々にプレーの感覚を戻そうとトレーニングを積んでいるところに、思わぬ代表招集がかかった。参加したのは、アジアユースの直前の最終合宿。1年前に参加したSBSカップから、約1年間のブランクだ。当然、チームとのコンビネーションは噛み合わなかったが、SBの人材不足に悩んでいたU−19代表の牧内監督は、サウジアラビアで行なわれるアジアユースの登録メンバーに吉田の名前を書き込んでいた。そして日本代表は、U−20ワールドカップの出場権をかけた準々決勝で、韓国の前に屈辱的な敗北を喫するのだ。
「本当に悔しかったです。やれると思って試合に入って、あれだけできないと本当にショックでした。必死に防ぐだけで、よく3点で済みましたよね」
ただ、耐えしのぐ90分間を終えると、喪失感だけが残った。7大会続いていたワールドユースの連続出場が止まったピッチに、自分が立っている。その落胆の思いは、今までに経験したことがないものだったに違いない。
プロ入り後すぐにケガが再発し、気持ちをぶつける場がないままリハビリ生活を送った。アジアユースでは、ライバルの韓国に叩きのめされ、U−20ワールドカップへの連続出場を止めてしまうという屈辱も味わった。その経験を吉田は、どう受け止めているのか。
「ケガをした時は落ち込みましたけど、やってしまったものは仕方ない。やりきれない気持ちはあったけど、とにかく復帰した時に少しでも良くなるように、リハビリ頑張りましたよ」
「アジアユースに行けたことは大きかったし、韓国戦に出られたことは大きかった。あの試合に関しては凄い差を感じたし、これじゃダメだと思いました。そこを今後につなげていかないと、まったく意味のない大会になってしまう」
吉田は、次々に降りかかる受け止めがたい事実を、常に前向きに捉えて糧に変えてきたということだろう。思い返せば、去年1年だけではない。初めて壁にぶち当たったジュニアユース入団の時も、DFにコンバートされた2、3年の時も、与えられた環境のなかで、自分ができることに全力を尽くして乗り越えてきた。その真摯な姿勢と信念は、間違いなく吉田の武器だ。
「1日1日、今できることを精一杯やることしか、僕はできないです。積み重ねていって、等々力のピッチに立って恩返ししたい。僕は、森さんみたいにドリブルはできないので、周りを使いながらワンツーとかで出て行く。技術が足りない部分は体力で補って、とにかくどんどん裏に走りますよ。実際に前よりは裏でもらう回数も増えてるんです」
レギュラー陣のレベルが高く、出場機会を得るのは容易ではないが、とにかく自分の現状を受け止めてできることを地道に繰り返す。「育ててもらったと思っているし、愛着はあります。フロンターレじゃなかったら、ここまで来ていないかもしれない」という愛するクラブに恩返しするため、吉田は今日も麻生グラウンドで汗を流している。
profile
[よしだ・ゆうき]
フロンターレユースからトップチームに昇格したサイドバック。昨シーズンはAFCユース選手権メンバーにも選ばれるなど、プロでやっていくための下地を着実に身につけている。1対1の局面で最後まで諦めない粘り強いマーキングが信条。175cm/71kg、1989年5月3日生まれ、東京都出身
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