2010/vol.08
ピックアッププレイヤー:FW24/小林 悠選手
今シーズンからチームの一員となったルーキー、小林悠。入団前の昨年は怪我と手術を繰り返し
満足にプレーすることができず、プロ生活のスタートも孤独なリハビリからだった。だが現在は怪我も癒え、
ボールを蹴るその表情にも輝きが戻ってきた。しなやかな身のこなしと独特のリズム感はピッチで異彩を放つ。かつての感覚を完全に取り戻し、チームに新しい風を吹き込むことができるか。
「サッカーができるだけで楽しい」
兄の影響で保育園の頃から少年団に入ってサッカーをはじめた。子供の頃にボールで遊んでいた記憶はいまでもはっきりと覚えているそうだ。小学校のサッカー部では中心選手。関東選抜にも選ばれ、その才能の片鱗を見せていた。
「小学校の頃は周りの子たちと比べて足が速くて、けっこうゴールも決めていました。でも中学になって、そんな自信は見事に打ち砕かれましたけど。周りの子たちの体がどんどん大きくなっていくなかで、自分は背が伸びず思うようなプレーができなくなっていったんです」
子供の頃からサッカーが大好きで真剣に打ち込んでいたが、中学時代は体が小さく華奢で目立った活躍ができなかった。実際に小林は高校に進学する際、川崎フロンターレU-18のセレクションで落とされている。クラブチームの道は断念し、母親の母校でもあった麻布大学附属渕野辺高校サッカー部へと進むことになった。だが、ここから小林のサッカー人生は好転してゆく。高校に入ってから身長が伸びはじめ、スピードもついてきた。太田宏介(清水エスパルス)、そして保育園時代から大学までずっと同じチームでプレーしていたという小野寺達也(栃木SC)といった仲間にも恵まれ、2年生、3年生時に高校選手権神奈川県予選で連続優勝。小林の代は創部以来初となる全国大会出場を果たした。当時、渕野辺高校でGKコーチをしていた中山和也通訳(川崎フロンターレ)は、当時の小林をこう語る。
「悠とはじめて会ったのは彼が高校2年のときですね。当時からサッカーの技術は高かったんですけど、まだ背が小さくて線も細かったんです。2年の終わり頃から急激に伸びたんじゃないですか。1、2年の頃はスーパーサブ的存在で、3年生はレギュラーを張っていました。人柄としては昔から人なつっこい性格で、居残り練習の後に『飯をおごってくださいよ』って言ってきて、ファミレスで7、8時間ずっとしゃべっていたことがあります。悠が大学に入ってからも連絡をとっていたし、また一緒のチームになるというのも何かの縁ですかね。昔もいまも相変わらずです。本当に憎めない奴ですよ」
高校卒業後、拓殖大学へと進学。高校まではトップ下やサイドハーフの選手だったが、大学の監督に得点感覚を見出され、FWでプレーするようになった。コンバート当時は足下でボールをもらってドリブルで勝負をしかけることしかできなかったが、ポジショニングどりやスペースへの飛び出しといったFWとしての動き出しもじょじょにマスターし、得点力に磨きをかけた。3年生時には関東大学サッカーリーグ2部で22試合19得点を挙げ、得点王を獲得。さらに夏休みを利用してJFA特別指定選手として水戸ホーリーホックでプレーし、J2ながら5試合に出場した。4年生に上がる直前にはフロンターレの宮崎県綾町キャンプに参加。成長とともに小林のプロへの思いは、憧れから現実的なものへと変わっていった。
「当然ですけど、実際にプロの世界に触れてみてレベルの違いを感じました。水戸で試合に出させてもらったときも、お金を払ってお客さんが試合を観にきてくれているわけですからスタジアムの雰囲気も全然違う。日々の練習からみんな必死でやっていたし、そんな姿を目の当たりにして、自分も体のケアや食事面といったサッカー以外の部分も気にかけるようになりました」
キャンプに参加した当時のことを、向島建スカウト(川崎フロンターレ)はこう語っている。
「大学1年生のときに悠のプレーをはじめて見たんですが、2部とはいえ1年から試合に出ていたし、高校時代にも選手権に出場していて面白い素材だなと思っていました。このまま成長すれば、と期待をこめて追い続けていたんです。その後も関東選抜に入ったりしていましたし、『いい選手ですね。興味があります』といった内容の話はサッカー部の関係者の方には伝えていました。他にも何人か有望な選手をリストアップしていましたけど、悠の体のしなやかさや独特のプレー感覚は、いろんな攻撃バリエーションを持ったフロンターレのサッカーにフィットするんじゃないかと思っていました」
スカウトの立場からすれば獲得したい選手をチームの練習に呼ぶわけだが、現場のスタッフや選手を納得させるようなパフォーマンスを見せなければオーケーはもらえない。何よりも本人がチームを気に入ることが第一の条件だった。
「スカウトとしては悠を獲得したいという気持ちで、あとはチームの雰囲気を見て本人に決めてもらえばと考えていました。でも練習に行く前からフロンターレのことを気に入ってくれていたようですし、キャンプでは自分の持ち味を存分に発揮してくれました。うちのスタッフや選手も『いい選手だね』と話していましたし、現場を納得させるだけのパフォーマンスを見せてくれました」
小林は練習参加した時点で、フロンターレに入団する意思を固めていた。練習環境やチームの雰囲気を気に入ったということもあるが、何よりもレベルの高いチームに身を置くことで自分自身を高めることができると肌で感じていたからだった。交渉は順調に進み、4月という異例の早さで入団内定のリリースが切られ、小林のサッカー人生は順風満帆に見えた。
だが、ここからが本人いわく「地獄の日々」だった。
4月の大学リーグ初戦で肉離れを起こし、さらに大学選抜のユニバーシアード大会の調整合宿で左足中側骨を骨折。足の指にボルトを入れる手術を行った。そして数ヶ月のリハビリの後、秋口に復帰したものの、今度は前十字靱帯を断裂という大けがを負った。しかも靱帯と半月板だけではなく中の骨まで折れており、ひとまず骨折を手術してさらに1ヶ月後に靱帯の手術と、1年で合計3度の大手術を行うことになってしまった。ようやく足を動かせるようになったのが11月。そこから半年間のリハビリ生活が待っていた。つまり、小林は大学4年生の大半を怪我とリハビリで棒に振ったことになる。
「骨折のときはまだ大丈夫だと思っていましたけど、靱帯をやったときはさすがに落ち込みました。もしかしたらプロへの道がダメになるんじゃないかって…」
向島スカウトに電話で怪我の報告をしたとき、緊張で声が震えた。いまにも泣き出してしまいそうだった。だが、電話口の向こうの向島スカウトの言葉は『大丈夫だ。ゆっくり治せばいい』という温かいものだった。
「確かに2回目の怪我のときにはびっくりしました。でも、サッカー選手に怪我はつきものです。不摂生をして怪我をしたわけじゃなくて一生懸命プレーしているなかでの怪我だし、同じような状況を克服して活躍しているプロの選手もいます。スカウトとしては獲得してピッチでがんばってくれればいいと思っていたし、しっかり面倒を見ようという覚悟でいました」(向島スカウト)
2010年のシーズン、晴れてフロンターレの一員となった小林だが、チームとは別メニューのリハビリからのスタート。病院とクラブハウスを行き来しながら筋力補強に努めた。全体練習に加わるのが遅れたためチームに馴染むのに少し時間がかかったが、リハビリ仲間からコミュニケーションの輪を広げていった。そして地道なリハビリの結果、中断期間前に合流。ようやくチームメイトの待つピッチに立つことができた。
「いまはサッカーができるということが幸せです。ピッチでチームメイトと一緒にボールを蹴ることができる。毎日が充実しているし、本当に楽しい」
プレーそのものは、まだイメージどおりにいかないときもある。靱帯を断裂したときの音をいまでも鮮明に憶えていて、ときおり無意識にセーブしてしまうこともあるそうだ。こればかりは自分の足で踏み出していくしかない。だが、本人に焦りはないようだ。
「焦ってもいいことがないというのは去年、さんざん学びましたから。ツトさん(高畠監督)や中山さんも1年目はしっかり体を作れといってくれているし、地道にトレーニングを続けていきたいと思います」
攻撃的なポジションながらどこでもこなせる小林だが、フロンターレではFWとしての働き、得点力を求められることになりそうだ。それは本人も自覚しており、練習の段階からゴールを決めていかなければチームメイトからの信頼も得られないと感じている。
「みんなボールを持ってからがうまい。それに比べて自分はまだミスが多いです。正直、学生の頃は自分が周りに指示を出すことが多かったですけど、いまは逆にいわれることが多い。正直へこむときもありますけど、それだけいい環境でサッカーができているんだとポジティブに考えています」
足下でボールを受けてからのテクニックでは、ブラジル人や経験のある選手にはまだ届かない。だが、小林には他の選手にはない独特のリズム感、そしてポジションどりのうまさという武器がある。動き出しての勝負ならば小林にもチャンスがあるはずだ。高畠監督もじっくり時間をかけて成長してほしいと目を細める。
「悠はどちらかというとセカンドストライカータイプですよね。高校ではMFだっただけあって、FWと中盤の間でボールを受けるのがうまい。器用さもあってサイドや中盤ができるユーティリティーさもある。オフェンシブなポジションならばどこでもできますけど得点感覚にすぐれていますし、ゲームメイクするタイプではなくチャンスメーカーかなと。試合勘というところはまだこれからですが、日に日に良くなっていると思います。まずは体作りをもう一度やってひと回りふた回りも大きくなって、怪我をしたことをプラスに変えていってほしいです。頭のなかイメージと体の反応とのギャップを埋めていってほしい。焦らずに続けていけばプロの世界でも十分通用すると思います」(高畠監督)
チームメイトと同じ練習グラウンドの上に立つことはできた。だが、ここからが本当の勝負だ。同期入団の楠神順平は、試合途中から投入されるジョーカーとして第10節・G大阪戦でハットトリックを達成し、頭角を現した。同い年の選手の活躍に刺激を受けないはずはない。
「順平はいい意味でライバル的な存在だし、競い合いながらレベルアップしていきたいです。僕らみたいな途中から出てくるようなタイプの選手が結果を出せるようになれば、チームとしても助かると思うので」
第20節・新潟戦。小林は初の遠征メンバー入りを果たした。試合に出場することはなかったものの、トップチームの試合を実際に肌で感じることができた。さらに天皇杯全日本サッカー選手権大会2回戦、鹿屋体育大学との試合で公式戦初出場。連戦の最中でチャンスをもらい、いきなりの初スタメンながら2ゴールの活躍。1点目は右足、2点目はヘディング。大学生相手ではあったが、あまり経験したことがないワントップのポジションでチームの勝利に貢献した。1点目は木村祐志、2点目は楠神からのアシスト。くしくも同い年でプライベートでも仲がいい2人からのラストパスを受けてのゴールだった。
「最後の方は足がつっちゃいました。自然と体が緊張していたんですかね。自分の足じゃないみたいな感覚でした。でもデビュー戦で点が取れて良かったです。そのためにリハビリをがんばってきたので。でも、2点取ってからはハットトリックを狙って調子に乗りすぎて、余計な切り返しとかをやっちゃいました。いいところを見せてやろうと思って。まだまだですね」
現在のフロンターレは若い選手にもチャンスが巡ってきている。実際に誰が出ても一定の力を発揮できるまでの選手層になってきた。だがトップチームに定着し、チームメイトからの信頼を勝ち取るためには、自分の力でさらに壁を打ち破らなければならない。実力派集団のなかでオリジナルの武器を見つけられるかどうか。それは小林の今後のがんばりにかかっている。
「まずは自分の体をいいときの状態に完全に戻して、それから少しでも多くの試合に絡んでいきたいです。いつチャンスがくるかはわからないですけど、まずはできることをやっていこうと。コツコツ続けていきたいと思います」
小林は多くの人に支えられ、サッカーができる喜びを噛みしめながら、今日もボールを追いかけている。一歩一歩、着実に前へと進む。だが、まだ才能の片鱗を見せたにすぎない。その先には無限の可能性という道が開けている。
profile
[こばやし・ゆう]
天性のサッカーセンスを持ったアタッカー。大学時代に水戸ホーリーホックでJFA・Jリーグ特別指定選手を経験。ユニバーシアード日本代表候補に選ばれるなど、実績も十分。1987年9月23日、東京都町田市生まれ。175cm/68kg。
>詳細プロフィール