2011/vol.17
ピックアッププレイヤー:寺田周平コーチ
昨年、選手生活にピリオドを打った寺田周平は、
フロンターレのトップチームコーチとして第二の人生をスタートさせた。
選手から、コーチへ。
新たな世界で、第一歩を踏み始めた。
2010年、寺田周平は12年間に及んだプロサッカー生活にピリオドを打った。
1999年にフロンターレに加入。2度の大きな怪我を乗り越え、30歳を超えてからの日本代表選出。長年に渡りフロンターレを支えてきた寺田が、昨年、引退を決意。
膝の痛みがとれず、スポーツ選手として限界までチャレンジしての、納得の決断だった。
あれから約1年。
寺田は、今、選手時代とは違う色のトレーニングウェアに身を包んで、トップチームのコーチという立場で、グラウンドに立っている。
久しぶりに寺田に話を聞くことができた。
まずは、引退について改めて話を聞いてみよう。
納得した上での引退だったはずだが、改めて振り返ってみてその決断についてどう思っているだろうか?
「未練…は、なかったですよ」
引退後は、お世話になった方々に挨拶に行ったり、年末には毎年恒例の高校サッカー部の集まりに出掛けたが、昨年は、いつもの集まりというよりも、寺田の慰労会になったという。
「そこで久しぶりにサッカーをした時に、すぐ膝が痛くなっちゃって、やっぱりもう選手としては無理だったなぁと改めて実感しました」
とはいえ、もう練習をしなくてもよいという初めての生活は、不思議なものだった。
「オフに来季に向けて体の準備をしなくてもいいというのは初めてのこと。最初はやっぱりプレッシャーから開放されてホッとした気持ちが大きかったけど、小学校から続けてきたサッカーの練習をしなくなるというのは信じられない気持ちもあったし、たまに寂しさを感じることもありました」
たくさんの人たちから「お疲れ様」という言葉をもらい、そのなかには「もうちょっとやれたんじゃない?」という労いの言葉も含まれていたが、それで心が揺れることはなかった。やりきった末の引退ということに、寺田は幸せを感じていた。
第二の人生に関しては、30歳を超えた頃から、いつか訪れる引退というものを意識し、漠然としたイメージは持ち始めていたという。
「やっぱりサッカーの指導者になるということは考えていました。将来的に何をやるかは別として、育成年代を指導することには元々とても興味がありましたね。中学までは自分もクラブチームにいたので学校が終わって、クラブの練習に行くという日々を経験していたので、漠然とですがジュニアユース年代をイメージしていました。トップチームに関しては、まずは育成から指導者をスタートし、やっていくうちに、いずれそういうところも目指したくなるのかなということは頭の片隅にはありました」
選手時代から「周平さんが怒ったところを見たことがない」とチームメイトたちはよく言っていたが、そういう寺田が考えていた“指導者像”もまた、寺田らしい考えい方のものだ。
「頭ごなしに怒ることはしたくないと思っていました。もちろん甘いということではなく、厳しいことも言う必要がありますけど、丁寧な言葉で理解させる指導者になりたいと考えていました」
実際には、寺田の選手から指導者へのリセットは早い段階で訪れ、新たな目標に向かうことになった。
チームからはトップチームのコーチという仕事のオファーを受けていたからだ。クラブは引退を決意した周平に対し、プレーヤーとしての経験、人望、そしてクラブ創設時からの貢献を考え、引退後もクラブに力を貸してほしいという思いを伝えていた。周平自身も指導者になることは決めていたものの、そのポストは育成等の仕事ではなく、本人が一番驚いたというトップチームのポストだった。
「正直ビックリしました。でも、フロンターレというチームにずっとお世話になってきて、そこで必要とされる場所がある。だから頑張ろうと思いました」
引退を決意してからの動きは早かった。2010年12月には2011年のコーチングスタッフが集まってミーティングが行われた。2010年シーズンを踏まえての反省と、2011年シーズンに向けての役割分担やスケジュールの確認などが行われた。寺田は選手の立場として2010年シーズンを振り返った。
「緊張はしましたね。まだその頃は、選手としての取材も受けていた頃で完全に自分自身の立場を切り替えられていませんでしたし、自分に何ができて何ができないのかもまだわからない状態でしたので、不安も多少ありました」
キャンプまでの1ヶ月間、寺田は自分がもっていたフロンターレの試合DVDの失点シーンをみたり、現役時代に感じたことなどをノートに書きとめた。それは、あるチームメイトから影響を受けてのことだった。
長橋康弘は、フロンターレの右サイドとして君臨し、2006年にフロンターレで現役生活を終えた。その後、指導者として第二の人生を歩み、フロンターレの小学生年代をずっと指導している。
年齢も同じで、現役時代から懇意だったふたりは、寺田の引退を受け、久しぶりにふたりで時間を気にすることなくゆっくり食事をしながら語り合った。いつの間にか話は、「指導者」についての話に及び、長橋は現役を終えた後に自分が感じたこと、コーチとして積み重ねてきたなかで、引退後やっておいてよかったことなどを寺田に率直に話した。そのひとつは、現役選手としての自分のプレーをしっかりと記憶にも記録にもとどめておくべき、というものだった。
長橋が振り返る。
「小学生を教えるようになって半年ぐらいした時に、ふと気づいたんです。現役時代に覚えた戦術だったり、監督が言ってた言葉だったり、自分のプレーをいつか忘れてしまうことに対する危機感があったし恐かったので、そういうことを振り返る作業をしたんです。それを周平に話したんだと思います」
寺田にとっては久しぶりに会った長橋が、すっかり指導者の顔になっていることに驚きつつも、貴重なアドバイスをしっかりと受け止めた。
2011年、フロンターレは相馬新監督のもと、新たなスタートを切った。
鬼木ヘッドコーチ、今野コーチと共に、寺田はコーチとしての役割を担った。
寺田の仕事は、チームのDF面を見ることや、フロンターレの試合映像を編集してまとめること、試合分析班として、今野コーチのサポート役としてビデオ編集をすること。そして試合の日は、麻生グラウンドの練習を今野コーチのサポート役として行うことなどが主な内容になる。
すべてが新しい仕事だ。昨年まで選手だった生活から一転して、指導者としてスタートしたわけだが、どんな風に感じていたのだろうか? どんなことを選手たちに伝えたいという思いだったのだろうか?
「やっぱり自分が経験したこと、プレーや技術的なことはもちろん、相手との駆け引きとか目に見えないところ、そういうところを伝えていかなければいけないな、と。でも、昨年まで一緒にプレーしていた選手たちも多いですから、そのへんは戸惑いも難しさもありました」
それは、選手の方も同じだろう。だが、選手時代からチームのなかで圧倒的な信頼度があった寺田だったからこそ、すんなりと「コーチ」として受け入れられたのもまた事実だろう。
伊藤宏樹は、こう語る。
「最初は周平さんが違う練習着を着ていることに違和感がありましたよ。でも、もともと選手のときから存在感があるし、頼れる兄貴のような存在。話しやすいし、守備の細かいところを経験してきているので、けっこういろんなことを話しています」
選手という立場からコーチへ。プレーをする側から指導をする側へ。当然、戸惑いも難しさも誰もが感じるだろう。
「自分のなかでは、もっとできるかなと思っていましたけど、それは甘かったですね。今年は自分の未熟さを感じることが多かったです。日々のトレーニングのなかで、ピッチの中を選手目線で見ている部分があったのかもしれない。まだ見るべき視野が狭いところがあるので、相馬監督、鬼木さん、今野さんたちの側で常に学びながら選手たちのサポートをしています。現役時代に相手チームの映像を見て次の試合に向けての準備はしていました。でも、チームとして相手と戦うためにあらゆる角度から分析し、フロンターレの戦い方にあわせて、映像を編集し、それを選手たちに伝える。自分で理解するという作業から人に理解させるという作業の難しさを感じています。それから、ヤス(長橋コーチ)が言っていたように、自分の現役時代のプレーをもっと分析して整理することも必要だし、それを伝えていくこともしていかなければならないと思っています」
今野コーチもまた、寺田と同じようにフロンターレで現役引退し、そのまま翌年トップチームのアシスタントコーチに就任した経緯がある。
「僕も経験したからわかるけど、コーチ1年目は、難しい時期ですよね。こなしていくことが精一杯の時期。目線が選手から指導者に変わる時だし、選手に『伝える』ということが必要になりますからね。ただ、逆に言うと、まだ選手の目線に近いということがいいことでもあるし、周平を見ていると、自然にコーチ業に入れていると思います。よく守備の練習をやっていても、『後ろのライン下がっているぞ』とか気づいたことをポイント、ポイントで言ってますからね。僕も、彼の意見を聞きますよ。例えば、ビデオの編集をしていて、とくに守備のシーンになると『周平だったら、このポジションをどう思う?』ということなどを聞きますね。ある意味で、選手としての見方がまだ残っているからそれを聞きたいということもあるし。周平は、マジメだし、コーチのなかで一番年下だから潤滑油のような存在です。今は1年目だから、まだ仕事をこなしている状態だろうけど、よくやっていると思いますよ」(今野)
トレーニングが終わると、選手が寺田に声をかける。
「周平さん、ヘディング練習お願いします」
そんなシーンを度々見る。
寺田自身は、「何もできていない」とは言うが、そうしたシーンを見るたびに、昨年まで寺田が選手として培った経験が、少しずつフロンターレの選手たちに伝わっているのを感じる。
そのひとりである横山知伸は、こう振り返る。
「今年、DFをやることになって、シーズン初めに、CKで点を取りたいって周平さんに相談したんです。そしたらそういうシーンを集めたDVDを作ってくれたんです。セットプレーの練習でも、アドバイスをもらっています。守備面のことをよく観ていてくれるし、やっぱり選手としても尊敬していましたからありがたいです」
チームが求めたのも寺田の「経験」をフロンターレに残していくことだろう。それを伝える「言葉」をまだ指導者として間もない寺田は不器用にしか持っていないかもしれないし、「もっとこういえばよかった」と思うことも1年目の今は度々あるだろう。ただ、ひとつだけ、寺田が自信をもって言えることがある。それは、現役選手という期間限定の時間がかけがえのないものである、ということだ。そしてそのことは、とくに若手選手に伝えてきた。
「試合が勝った時なんていうのは、あぁ、懐かしいなと感じることがありますね。きつい練習を毎日やるのは大変だけど、毎日達成感が味わえて、試合に勝った瞬間の喜びは本当に格別なもの。選手にはそれを味わってほしいですよね。それから引退については後悔はないけど、今のように“考えて”現役時代にプレーしていたら、もっと違ったプレーができたのかなというのはあります。実際、現役時代は思いつかなかったわけだから、しょうがないですけどね。あとは、時間も選手時代はたくさんあったので、もっと有効に使えばよかったなということにもいまさらですが気づきました」
選手時代には気づかなかったこと。例えば、試合開始時刻が、ある時は19:03キックオフという19時ピッタリに始まらないことも選手時代には、思いもしなかったことだ。その時間に合わせて、コーチングスタッフが時間を逆算して分刻みでトレーニング時間を作ってくれていることにも。
「今、試合の日にベンチに入らないメンバーたちのトレーニングのウォーミングアップを任せてもらっているんですけど、以前は練習前に体を温めるぐらいにしか思っていなかったその時間も、いざ自分で考えてみると、いかに楽しくやるかとか、いかにメニューに変化をつけるか、などとても難しいものです。ビデオ編集にしても選手時代は10分見るだけだったものを何時間もかけてコーチが作ってくれたものだったんだと初めて知りました」
そして、言葉を続けた。
「今はいろんなことを吸収していて、なんでも勉強している時期です。大変なことも多いけど、選手の時から、苦労しないと成長できないと思っていたから、何でもプラスにかえて成長していきたいですね」
インタビューを通じて、まだ寺田は、コーチの自分に対して合格点を与えられず、「未熟さ」「難しさ」といった言葉を繰り返した。この先、フロンターレが続いていくなかで、寺田がともにトレーニングした選手たちがどう活躍していくのか、そしてフロンターレを築いていくのだろうか。
「僕は現役を引退した今でもタイトルという目標にチャレンジさせてもらっている。多くのサッカー選手が引退していろんな道に進んでいる中、選手と共に戦えるポジションを用意してくれたチームには本当に感謝しています。だからこそ僕の現役時代の経験、コーチとして積み重ねている経験をチーム、選手たちに還元していきたい。そして、フロンターレをサポートしてくれるすべての人と、まだ成し遂げていないタイトル獲得に向けてチャレンジし、そして達成させたい。まだまだ未熟な自分かもしれないけど…」
寺田のフロンターレでの第二章は、まだ始まったばかりだ。
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[てらだ・しゅうへい]
空中戦の高さと1対1の局面の強さ、そしてカバーリング能力と、ディフェンスに必要な要素をすべて備えた大型DF。2008〜2009年には日本代表にも選出される。2010年惜しまれつつ引退。2011年より川崎フロンターレトップチームコーチに就任。1975年6月23日/神奈川県横須賀市生まれ。189cm/90kg。日本サッカー協会公認 C級ライセンス。 >詳細プロフィール