山越享太郎 DF25/Yamakoshi,Kyotaro
テキスト/麻生広郷 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Asao, Hirosato photo by Ohori,Suguru (Official)
昨シーズン途中にJFA・Jリーグ特別指定選手として登録され、筑波大学に籍を置いたまま完全移籍という異例のケースでフロンターレに加入した山越享太郎。腰を落ち着けてサッカーに専念できる環境が整った2013年。選手個々のプレーの質の高さが求められるチームにおいて日々プレーの幅を広げている。
2012年07月14日、サンフレッチェ広島戦が山越享太郎のデビュー戦だった。
山越がJFA・Jリーグ特別指定選手の承認を受けたのはその3日前の7月11日。彼はこの週、筑波大学蹴球部のメンバーとして大阪で開催された総理大臣杯の3試合に出場している。試合が行われたのは日曜、火曜、木曜。木曜日に行われた準々決勝で筑波大学は敗れ、山越は翌日広島へ移動してフロンターレに合流。そして次の日の広島戦の後半から出場した。つまりこの週は中1日で4試合というハードスケジュールだったことになる。
「あのとき筑波が勝ち進んでいたのでそちらを優先させてもらいましたが、いま思い返すとあれは夢のような1週間でした。まさかあんな形でJのピッチに立つとは思わなかったので」
その頃のフロンターレは怪我人が続出しており、ベンチメンバーすら満足に揃えられないチーム状況だった。山越自身も総理大臣杯の関係でフロンターレの練習になかなか参加できないまま、ほぼぶっつけ本番でピッチに立った。その試合はチームの攻守の歯車がうまく噛み合わず前半のうちに3点差をつけられていたが、山越は大学でプレーする左サイドバックではなく左のウイングのようなポジションで相手の背後をとる動きを繰り返しながら、のびのびとプレーした。
「緊張感よりも、あんな大観衆のなかでサッカーができる喜びの方が大きかったです」
試合後のミックスゾーン。慣れない様子で話す山越の初々しい姿が印象的だった。
「ユースの頃からあんな感じですね。ぼーっとしているというか、つかみどころがない奴なんですよ、あいつは。みんなと話をして盛り上がっていても次の瞬間、『あれ、どこかに行ってる』みたいなイメージ。泥臭くやれというようなことを言われると不利なプレースタイルなので、ユース時代はレギュラーに定着できませんでした。だから大学に入ってから一気に成長したんだと思います。実際にユースの頃と比べるとミスが格段になくなっていると思うし、そう簡単にはボールを取られない感じがします」
(高校時代の東京Vユースの先輩であるチームメイト、高木駿)
山越がサッカーを本格的にはじめたのは小学校3年生の頃。地元の栃木県今市市(現日光市)の少年サッカークラブがスタートだった。
「僕が小学校の頃、稲本さんがワールドカップに出場していたのをテレビで観ていました。その稲本さんといま同じチームで一緒にプレーさせてもらってるなんて、すごく不思議な感覚です。うちは勉強一家みたいな家庭でしたけど、僕だけ体を動かすことが大好きで、家に帰っても親が帰ってきたら『ボール蹴ろうよ』ってせがんでいました。両親が真剣にサッカーに取り組める環境にしようということでサッカークラブに入ってからは、漠然とですがサッカー選手になりたいってずっと考えていました」
サッカーをはじめてすぐの頃はフィールドプレーヤーだったが、本人いわく「ぽっちゃりだったから」という理由で小学校6年生の途中までゴールキーパーだった。何かにこだわることはなく、ただ純粋にサッカーを楽しんでいたそうだ。だが、県内の強豪である中学校のサッカー部に入部してからはボランチでプレーし、全国大会も経験した。厳しい練習のなかで磨いた個人技が現在に生かされていると当時を振り返る。
「中学校のときの練習はかなり厳しかったですね。先生が静岡学園のようなサッカーを目指したいと話していて、コーンを使ったドリブルとかリフティング、あとは走りばかりやっていました。個人技メインの練習ばかりだったので、それがよかったのかなって思っています」
中学3年生になった山越は東京ヴェルディユースのセレクションを受け、見事合格。そのセレクションで受かったのは彼1人だけで、1年下にも1年上にもセレクションから入ったユース生はいないという。狭き門をくぐり抜け、山越はエリート集団のなかに身を置くことになった。
「当時そこまで自信があったわけではなかったんですが、より高いレベルでやってみたいという思いがあって、とりあえず受けてみました。セレクションでヴェルディユースに入るパターンなんてめったにないというのは、あとから知ったんですよ。誰が僕を獲ってくれたんでしょうね。当時ヴェルディにいた新吉さん(菊池新吉・現GKコーチ)も『ありえないよなぁ』って言ってましたから」
中学卒業後、山越は地元を離れ、ヴェルディユースの寮で生活することになった。よみうりランド近くにある高校に通いながら、授業後は練習グラウンドに直行する日々。1年目は「周りのレベルが高すぎてどうしようかなと考えているうちに1年間が過ぎちゃいました」と話すように、なかなか練習についていけなかったという。2年生の終わり頃にようやく試合に絡めるようになったが、結局レギュラーに定着することはできなかった。
「3年生になってある程度は試合に絡めるようにはなりましたけど、最後の方は出ていません。ユースの頃にトップチームの練習試合に呼ばれて行くことがあって、そのときは大学生が相手だったんですが、展開が早いし身体能力にも差がありすぎて、こんなにも差があるんだと思いました」
「ひとつのポジションの役割を淡々とやるタイプで、うまいけどユース生にありがちな選手だなと風間さんと話していました。どちらかと言えば風間さんが好きなタイプではなかったですね(笑)。でも推薦入試がある11月の終わりに現役生と受験生とで試合をやったんですが、そのときチームの中心的な役割でプレーをしていて、こちらが求めることを覚えさせればまだ伸びるんじゃないかという話になったんです」
こう語るのは昨年まで筑波大学蹴球部のヘッドコーチを務めていた内藤清志。山越が高校3年生の夏休みに練習参加したときの印象をこう振り返る。一方、筑波大学に進学した山越は山越で、独自の理論で大学サッカー界に新風を吹き込んでいた風間監督の指導法に面食らったそうだ。
「正直なところ、筑波が関東一部にいるのは知ってたんですけど、風間さんがいるのは全然知らなかったんですよね。練習参加したときに教え方がこれまでとは全然違っていて、パススピードもめちゃくちゃ速い。最初、こんなレベルの高いところでサッカーできるんだろうかって思いました。あの衝撃は中学からヴェルディユースに上がったときよりも全然大きかったです」
大学で風間監督から指導を受けるようになり、山越のサッカーに対する考え方は大きく変わった。フォワードが斜めに走ったとき、それまでは味方が走る延長線上に合わせてボールを出すイメージだったが、「それじゃダメなんだよ。大学では通じても、その先では通用しない」と風間監督に指摘されたという。
「足下で合わせろ、点で合わせろということを言われました。そういうイメージなんだ、すごい技術が必要だなと思いましたね。だから1年目は練習についていくのがやっとでした。頭のなかでは理解しようと思っていましたけど、たぶんよくわかっていなかったです」
山越は瀬沼優司(現清水エスパルス)とともに1年生の頃からAチームに残っていたが、「瀬沼は試合に出ていましたけど、僕は出られるような感じではなかった」(山越)そうだ。だが左サイドバックでプレーするようになってから、中学時代から磨いてきた個人技がより光り輝くようになった。
「山越が頭角を現してきたのは2年生の終わりぐらいに左サイドバックに定着したあたりですかね。大学に入ってからボランチやサイドハーフでプレーしていたんですが、人数の関係で左サイドバックになって、2年生の練習試合あたりから自信をつけていきました。ボールを失わないし、もともと能力はあったんですが、体をうまく使いながら縦にドリブルをしかけることを身に着けてから、さらに成長したんじゃないでしょうか。普通の選手はドリブルをするとスピードが落ちるんですが、山越は力がうまく抜けているのでボールを持ってもスピードがあまり落ちないんです」(内藤清志)
そして山越がチームの主力として認められるようになった大学4年生の春、ひとつの転機が訪れる。風間八宏のフロンターレ監督就任だった。
「練習前にいきなり『ちょっとミーティングやるぞ』ってなって、何だろうと思っていたら、風間さんが『そろそろ発表になると思うけど、フロンターレの監督をやることになった』って。みんな『えぇ!? マジか』って。まぁ、そうなりますよね」
山越自身は3年生の頃にJの他クラブからいくつかの話があり、そのなかからプロの道に進もうと思っていた。だが、そんな矢先に大学サッカー部の監督がJ1のチームの指揮を執ることになり、山越はフロンターレの練習に参加。その後、クラブのスカウト陣にも大学の試合でのパフォーマンスを認められ、正式なオファーが届く。本人にとっては急転直下の出来事だった。
「フロンターレはジュニーニョ選手やテセ選手がいた時代の印象が強くて、撃ち合いで勝っていくみたいなイメージでした。そんなチームからオファーをもらってすごくうれしかったですけど、けっこう大きな規模のクラブなので最初は自分ができるんだろうかという気持ちもありました。でも実際に練習参加をしてみて、チームに怪我人が多くて人は少なかったですが、まったく通用しないわけじゃないと感じることができました」
山越はJFA・Jリーグ特別指定選手になってから試合に出続け、8月には正式にフロンターレの一員として契約することになった。ただ先の総理大臣杯でサッカー部のチームメイトが試合中にアキレス腱を切るというアクシデントがあり、ずっと一緒にやってきた仲間たちと最後のインカレ(全日本大学サッカー選手権大会)に出場したいという未練もあったという。だが思い悩んだ末、山越は筑波大学を退部して移籍という形でフロンターレに加入することを決断した。
「以前の山越だったら、性格的にも『こっち(筑波大学)でいいです』という感じだったと思うんです。でも他のクラブからも声がかかっているなかで、フロンターレに練習参加してから本人に聞いたら『行きたいです』とはっきり言ったんですよね。彼自身も少しずつ変わってきているんだなと感じました。そこで風間さんとも連絡を取り合ってどちらがいいのかと考えた結果、彼の成長を考えるならば1日も早くプロになった方がいいと。もちろん最終的な判断は本人の選択です。筑波としては痛いのは痛いですが、うちとしては残った選手がチャンスだと思って伸びてくれればいいですから」(内藤清志)
その後、山越はプロ入りの条件だった大学卒業のために川崎とつくばを行き来しながら、フロンターレの一員としてプレー。第19節大宮戦から第30節神戸戦まで12試合連続で先発出場を果たした。
大学に通っている頃は「サッカーをやっている人に見えない」とよく言われたそうだが、厳しい環境に身を置くことで本人の心のなかにも変化が生まれたようだ。
「アスリートは我が強くて、この世界でのし上がってやろうというタイプが多いんですが、山越は本心はどこにあるんだろうという感じで、チームのなかでも淡々と自分のペースでやっていくタイプでした。でもサッカー部だった頃と現在を比べてみると、言葉の端々に自信がついてきたことを感じさせるものがあります。これからはもっと自己主張してもいいんじゃないでしょうか」(内藤清志)
「去年、試合に出続けることで勝つことの難しさを感じました。大学時代はどれだけいい内容のサッカーができるかを重視していて、内容がよければ結果がついてくるという考え方でした。でもいまは対戦相手も当然レベルが違いますし、局面での勝負心、球際の強さといったものも全然違う。プロになった以上、結果や勝負にこだわりたい。サッカーの内容が多少悪かったとしても、チームが勝つ試合をひとつでも多く増やしていきたい。そういう気持ちがすごく強くなりました」
2013年、新チームが始動。山越は年間を通して戦える体を作ること、そして1日1日を大切にするという目標を立てた。また日々の練習の様子を見ていると、ボールに対する粘り強さが出てきたように思える。本人にそのことを尋ねてみると、「意識はしていないんですけど」といつもの調子で前置きした上で、こう答えた。
「ボールに強くいくというよりは、五分五分の勝負に対してひとつでも多くマイボールにしようと思っています。それがそういう風に見えているんですかね。あとは自分のプレーが良くなかったとき、気持ちを切り替えるで終わらせるんじゃなくて、次に向かって何をすればいいかをより考えるようになりました。監督が求めることをやるのは当たり前ですけど、それと平行して自分のプレーの幅を広げて、監督の予想を超えるようなプレーをしていきたいです」
ピッチで気持ちをあらわにするようなタイプではなく、ともすればのんびり屋に映るかもしれない。だが内に秘めたものは強く、ドリブル突破をしかけているときの表情はまぎれもなくファイターの顔だ。
「自陣でマイボールのときはしっかりつないでボールを大切にすること。逆にアタッキングエリアでは対面のサイドバックと1対1になったら、積極的に勝負を仕掛けていこうと思っています。そういった局面でのプレーを見てもらいたいです」
山越享太郎は日々刺激を受けながら確実に成長を続けている。ときには慎重に、ときには大胆に。彼なりのペースをしっかりと守りながら。
(敬称略)
左足のテクニックを駆使したドリブル突破が武器の左サイドの職人。昨シーズンは筑波大学在学中にJFA・Jリーグ特別指定選手に登録され、公式戦に出場。そのままプロ契約を結び、怪我人が続出した左サイドを支えた。2012年の経験を自身の成長につなげてもらいたい。
1991年3月18日/栃木県
日光市生まれ
172cm/69kg
ニックネーム:キョウタロウ、ヤマ