伊藤宏樹選手 DF2/Ito,Hiroki
テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)
2001年に川崎フロンターレに加入して、今年で13年目。
1997年に川崎フロンターレが創設されて、今年で17年目。
その歴史のほとんどを知る、伊藤宏樹選手が語る今とこれから──。
伊藤宏樹選手が、フロンターレ在籍年数がもっとも長い選手であることは、皆さんも当然、ご存知だろう。
2001年の加入から2009年までほとんどの試合でピッチに立ち、2005年からはキャプテンを務めてきた。
2010年にキャプテンを離れると、怪我がちになることも多くなった。「どこか抜け殻になっていた」と本人はその頃のことを振り返ったこともある。そして2012年には久しぶりにキャプテンに就任し、「後がない気持ちで全力を賭ける」と誓い、シーズンのスタートを切った。だが、シーズン途中での監督交代など、フロンターレに変化が伴い、再スタートとなった。
そして迎えた2013年、伊藤宏樹は、DFの一角として第2節から出場していた。昨年途中に風間監督が就任し、それまでとは違うサッカー観やプレースタイルに触れることになった。年齢不詳な若いルックスを保ちながら、いつの間にかチーム最年長になっていた宏樹もまた、新しい手ごたえを感じていた。
「いまさらだけど勉強になることもあるし、今年はヨシトやケンゴとか30歳を超えてもうまくなっているのを見て、いい刺激になっている」(宏樹)
35歳という年齢を迎え、それをどう受け止め、どんなことを感じているのだろうか?
「今ですか? 今思うと、昔は、何も考えずにやっていたな、と思う。長くやっていれば当然だけど、朝起きて、体のコンディションと相談しながらやったり、30過ぎてからは、体のケアも昔よりするようになりましたね。でも、この歳になっても、特別なことはそんなに考えてないかもしれないですね。やってやろうとか構えることもないし、年齢も意識していません。こだわりもないし、チームに貢献できるならどこのポジションでもいい。そんなに堅いことは考えていません。先のことも、いつまでやっているのか、将来のこともわからない。ただ、体が動くうちは、サッカーやりたいですね」
そんな風に、淡々と、いつものようにさらっと語った。
実は、今シーズン中に宏樹は、2度の骨折をし、そこからリカバリーしていた。
4月1日の練習中のことだった。
トレーニング中に、パトリックと接触し、もつれる形で倒れこんだ宏樹の右肩に激痛が走った。
右上腕骨大結節骨折と呼ばれるもので、腕と肩の境目に当たる部分の骨に亀裂が入った。痛みはあったが、包帯をぐるぐる巻きにし、テーピングをし、痛い方向に動かないように固定して、それでも宏樹は、試合に出ていた。
ドクターから診断を受けた時、当然、ドクターはプレーすることを止めた。だが、宏樹はこう答えたという。
「自分の現役生活はそんなに長くはないだろうから、折れていたとわかったからやりませんとは言えない。痛みが変わらないから、このままやります」
ドクターからは、折れた部分を固定させておけば骨が確実にくっつくだろう。だが、もしずれてしまったら手術が必要になり、その場合最低3ヵ月時間がかかる旨の説明を受けた。
チームドクターやトレーナー陣は、最終的には宏樹の考えを尊重し、フォローしていくこととなった。
治療に当たった境トレーナーはこう語る。
「痛かったと思いますよ。骨の場合は、固定していても、痛いものは痛いですからね。でも、やるって決めたからやったんでしょうね。僕たちにできることは、なるべく痛みがとれるように電気治療を施したり、痛い方向に腕が動かないようにテープを巻いたりすることでした」
宏樹は、相変わらず、さらりとこう受け答える。
「ケガをしていた方の腕を使わないようにしていたから、見ている人のなかでは、わかった人もいたかもしれない。実際、肩が上がらなくて、相手に触れられなかった。もし試合中に何かあれば、すぐ交代することは考えていましたし、ダメだと判断されればすぐ交代だという気持ちもありました。いま思えば、よう出来たな、と思います」と、宏樹は笑った。
チームメイトたちは、もちろんその事実は知っていた。最後尾に位置するGKの杉山からは、とくにその様子はわかっていただろう。
「宏樹さんは、発表は絶対にしないでほしいって言ってましたね。相手に知られたらそこを突かれるからって。相当痛かったと思うけど、ピッチに入ったらガンガンやってました。宏樹さんの内に秘めた闘志なんじゃないかなって思ってました」(杉山)
その後、プレーをし続けてもなお、奇跡的に肩はずれることはなく、数週間後にレントゲンを撮った際に、くっつく方向での経過が確認された。
「そのまま乗り切ってしまうのが宏樹さんらしい」と言うのは、中村憲剛だ。
「よくやってたなと思いますよ。もともとさらっとキレイに(ボールを)獲るタイプのプレイヤーというのもあるけど、でもね、折れてた時もやってたわけだから。それでも試合に出ることを選べちゃうのは、強いっていうか…、もはや、あの人は鈍いんだと思う。宏樹さんの痛みに対する耐久度は、他の人と違うと思うし、だからあの人がやらないっていう時は、よっぽどの時なんだなって思う」(憲剛)
そうして、2ヵ月が経過して、肩の痛みが引いてきた頃、今度は、足を骨折してしまう。
練習中のこと、足を地面についた際に足関節の後ろを痛めてしまう。翌日、「足首が壊れた」という表現で、宏樹は境トレーナーに症状を伝えた。そのまま病院に行き、骨折とわかった。5月11日、チームからは、右足関節後突起骨折のため、全治4週間と診断されたことが発表された。
足首の関節の骨は、ボールを蹴ることによって後天的に骨が大きくなる箇所で、もともとある骨ではない。経過を観察したところで骨がつく様子がみられなかったため、手術をして除去する選択肢をとることとなった。
境トレーナーと宏樹は、シーズン途中でのケガということもあり、復帰までの目標を「1ヵ月」と短めに設定した。通常であれば、例えば2ヵ月での復帰の予定を立てていたとしても、途中の症状に変化がみられなければ当然リハビリの過程が伸びたり、復帰が遅れたりする。でも、そこまで待っていては、予定どおりに戻れなくなるだろうと考え、リハビリの目標どおりに体を動かしていくことになった。
「合流した日もまだ足首の腫れもあったし、まだ蹴る時に痛みもあったと思います。トレーナーとしてはあんまりしたくないですけどね。肩のこともあったので、宏樹としても早く戻そうという思いがあって、今回はこういうやり方にしました」(境トレーナー)
5月26日、ファン感謝デー開催。
最初は、麻生グラウンドを舞台に開催されていたフロンターレのファン感謝デーも、今ではホームグラウンドである等々力陸上競技場を舞台に行われ、選手たちの気合の入ったステージパフォーマンスやイベント催事などが、「名物企画」と注目されるまでになった。その過程ではクラブスタッフによる地道な継続や努力もさることながら、キャプテンである宏樹が自ら率先して、ステージに立ってきたことが大きかった。
「ステージ企画が始まった最初の頃は、まだ選手のやる気とか出るかどうかに関しては、大変だったかな。俺だって、最初は若手にやらせようって思ってたからね。でも、気づいたらスタッフからも相談されて一緒に話し合うようになってた。それで、自分がやってしまうのが(選手たちの協力を得るのに)一番早いかなと思った」(宏樹)
2013年のステージパフォーマンスは、前述の足の骨折により出られなかったが、最後の締めくくりとなる、サポーターと選手が一緒になってLIVEを行うという、フロンターレならではの企画では、マイクを握った。
サポーターと選手の距離が近く、近くというより、もはや一緒になって楽しめるのがフロンターレならではの盛り上がり方だ。宏樹の呼びかけで、大久保、さらには憲剛もステージに途中からあがり、最高潮のエンディングを迎えた。ステージの選手が手を挙げ、音楽が終わり、手を振って、ステージをおりていく。
久しぶりにファン感に参加できた憲剛も心から楽しんでいた。
「楽しかったね。ファン感、宏樹さんのフロンターレのハイライトだからね(笑)。フロンターレのファン感は、クラブスタッフと宏樹さんの手腕。あの人がやるから、みんなやらざるを得ない。だから、あそこまでのものが創り上げられた。宏樹さんじゃなきゃ、年長者の俺のことだって(ステージに)呼べなかったろうし、おかげで楽しめた!」(憲剛)
選手が退場している最中、ステージに視線を移すと、宏樹は、その終わりのタイミングで、後ろで演奏をし一緒になってステージを盛り上げてくれた方々に真っ先に握手をしていた。「後は頼んだ」と宏樹が指名していた杉山力裕も同じ行動をとっていた。そうやってフロンターレらしさが継承されていくのだなと思えるワンシーンだった。
杉山は、こう振り返っていた。
「LIVEのところは、宏樹さんの提案で僕も歌いました。そういう企画の部分でも考えて、どうしたらサポーターが楽しんでくれるかを考えてる。でも、その前に、自分たちも楽しまないと、後輩たちもついてこないからって引っ張ってくれていますね。宏樹さんとか、ヨシトさん、ケンゴさんとか上の人たちがノリノリでやってくれたのは大きかった。いつまでも宏樹さんまかせじゃいけないんですけど、でも、いないとまとまらない。でも一番大きいのは、宏樹さんがあれだけやっているからっていうところを見せてくれているのが大きいですね」
その日、ステージに出演した選手たちは、打ち上げをした。その集まりに顔を出した宏樹は、乾杯の席だけ同席して、19時からは翌日の手術に備え絶食だったこともあり、そのまま入院した。
改めて、宏樹に最近のフロンターレについて聞いてみると、こんな答えが返ってきた。
「もうお客さんも定着してきたところもあるし、全国的にも認知されるようになった。ケンゴとか代表選手になり有名な選手も出て、あと足りないものは何かといったら、どう考えてもタイトルですからね。自分で言うのもなんだけど、俺らがいるうちにやっぱり獲りたいですよね。それは、昔の苦しい時代を知っている人たちの願いとか思いも背負っていますからね」
フロンターレに関わる人や応援するサポーター、もちろん選手にとっても、何が足りないか、欲しいかというと、口に出さずとも「タイトル」ということになるだろう。
「それについてだけは、例えば、周平さんとか佐原とか引退した選手と話をした時にも、獲れなかった悔いや思いというのを聞くから、もし自分がサッカー選手を引退した時に、フロンターレでタイトルが獲れていなかったら後悔するのは今からでもわかる。だから、やっぱりそこはどうしても欲しいですよね」
2001年に宏樹が加入し、現在在籍する選手のなかで、その次に加入年度が古いのは、2003年の中村憲剛となる。
宏樹、憲剛の名前を並べて、「あのふたりと一緒にタイトルを」と言う声も、よく聞かれる。だが、当の憲剛にとっては、想いが少し違うようだ。
「俺にとっては、俺と宏樹さんと…じゃなくて、まず宏樹さんだなぁ。俺と宏樹さんは、フロンターレに入った年が2年しか違わないんだけど、その2年の重みは全然違うから。2001年は前年にJ2に落ちた年で、翌年もJ2。その2年間はまだ暗闇にいた時で、2年以上の重さがあったと思う。だから、本当のフロンターレの暗黒期を知っているのは、宏樹さんだけだから、俺と宏樹さんを並べてくれる人もいるけど、俺にとっては違う。だから、あの人に一番最初にカップを掲げてほしいなって思うね」
憲剛は、にやっと笑って、「とかいって、最初に俺が掲げちゃうかもしれないけどね」と続けた。
宏樹は、相変わらずの飄々とした表情で、でも、ぎゅっと想いが詰まった言葉を並べた。
「どんな形でもいいから、ひとつ獲りたいですね。って、ず──っと言ってきてるんだけど。本当にもう、いつまでサッカーできるかわからないってなったら、それしかやり残したことと言ったらないですからね。どうやったら獲れるかっていったら、わかっていたら簡単な話。そこがわからないからもがいているんだろうけどね」
立命館大学からフロンターレに加入し、今シーズンで13年目を迎えるDF。最年長選手としてピッチ内外からチームをまとめる。スピードと1対1の強さは相変わらず。昨シーズンは小さな怪我が続いたが、コンディションさえ整えばまだまだトップレベルで戦えるはずだ。
1978年7月27日/愛媛県
新居浜市生まれ
183cm/76kg
ニックネーム:ヒロキ