FW9/森島康仁
テキスト/江藤高志 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Eto,Takashi photo by Ohori,Suguru (Official)
「強気と弱気とのせめぎあい」。取材を終えて感じた心理のゆらぎを表現するとすれば、こんなフレーズだろうか。
取材中は、プレーに対する自信を見せる一方で、本当は秘匿し続けたいはずの自らの後ろ暗い過去を、身悶えしながら絞りだすように
口にしてくれた。そうして取材者と誠実に向き合ってくれた森島康仁はフロンターレでのイバラの道を自ら選んだ。
サッカーを始めたきっかけは、テレビに映るカズ(三浦知良)だった。
「幼稚園の年中の頃。真似ばっかしてました。カズさんのようになりたいとずっと思っていて、だからポジションは昔からFWでした」
小学校に入ってからは、いくつかのチームに所属しつつ小5の時に、神戸NKというチームに加入。中学への進学時に、父親からのアドバイスもあってセレッソ大阪のジュニアユースの一員に。「自分の中ではヴィッセルに行く気だったのですが、おやじがセレッソを勧めてくれて。プロになった今の事を考えれば、結果的に、セレッソに行って良かったです」
とは言え、プロクラブの下部組織に加入しただけで、プロサッカー選手への道が全自動で開けているかというとそんなことはない。ユースに上がるレベルになかった事を十分に自覚していた森島は、自らの意思やコーチからのアドバイスなどを受け入れ、滝川第二高等学校への進学を決める。
森島の人生を大きく変えたのはその高校時代だった。
「高2の夏のインターハイくらいから結構試合に出始めて、このインターハイでも4点くらい決めたと思います」
頭角を現した森島は、高校2年時にAチーム入りし高校選手権に出場。清水への加入が決まっていた岡崎慎司主将率いるチームの中核として、大会に臨んだ。そんな滝川第二の大会初戦は、本田圭佑率いる星稜高校との二回戦。当時は大会屈指の好カードと言われた。
「本田くん(本田圭佑)の星稜との対戦は結局3−4で負けました。でもこの試合で1得点1アシスト。岡崎さんへのアシストも実際はオレの点なんですけどね。入ってましたから(笑)」という活躍を見せたことが森島を年代別代表チームへと導く。
「選手権が終わって年が明けてすぐのタイミングでJビレッジでの合宿に呼ばれました。あの時の滝二は、選手権に出ていた1年2年は新人戦とかを免除されていました。その時は足首が悪かったので、ほぼ練習も出なくて良かったこともあり、ベタ休みしていたので、体重増加で参加して、めっちゃみんなに笑われました(笑)。それが初めての代表でしたね」
後に2007年のU20ワールドユース(現ワールドカップ)カナダ大会への出場を果たすこの代表での経験は、森島に強烈なインパクトを与えたという。
「そこでサッカー観が変わりました。一つのミスでもすごく言われましたし、周りの選手もすごかった。マイク・ハーフナー、内田篤人、槙野智章、森重真人、福元洋平などがいました。一番最初からずっと最後まで入ってたのは6人くらいしかいませんでした」
代表合宿で体感したレベルの高さについて森島は「新しい扉が開いた」と表現。そうやって新しい扉が開くたびに、苦労してきたと振り返る。一時的に招集メンバーから外れる事もあったが、結果的に中心的選手として代表に復帰。05年11月に熊本で行われたアジアユース1次予選に招集されると、台湾戦で1ゴールを決めるなど結果を残し、アジアユース本大会出場に貢献した。
その一方で、高校内では悩み多き日々を送っていたという。優勝候補として臨んだ国体であっさり敗退。批判の声が聞こえてくる中で迎えた高校生活最後の選手権を前に、問題が起きた。
「Bチームの3年が、Aチームとの紅白戦の最中にやる気無さそうにプレーしていたんです。それで『そんなんなら辞めてまえよ』と言ってしまって。その下の2年とかにも選手はおるんやから、そいつらに譲ったれよという考えで。でも騒ぎは大きくなって、監督室にキャプテンと副キャプテンとオレとが呼ばれて、事情を説明することになって、その時にオレは『じゃあ分かりました。オレはセレッソに決まるし、だからもう自分は選手権に出なくてもいいです。そいつを入れてください』と話したのは覚えています。結果的に選手権には出場したんですが、監督からは1週間、一切口を出さずに練習しろと言われ、そうしました。黙々と練習しました」
狭い監督室の中、泣くキャプテンたちとの経験を振り返る森島は、手を抜こうと口にする同級生の言動が許せなかったのだと当時を振り返る。ただ「でも、外された身になったことがなかったんですよね」と当時の自分を客観視もする。「過信したところがあったと思うし、メンバーから外れたら、そうなる(自暴自棄気味になる)ところはわからないといけないかなと思いました」
この経験はプロになって生きてくることになる。C大阪加入初年度は、当然のとごくレギュラーを取れるはずもなく、ベンチどころかスタンドを温める立場に。そこで忍耐を身に付けたのだと森島。もちろん移籍してきたフロンターレでも、ベンチからすら外れる経験をしているが、それでも森島は「その時のことがあるから、今もこの立場で絶対にネガティブなことは言わんとこうと思ってます」と話す。「でも今は26ですが、当時は18。ベンチ外の人の気持は分からなかったですね」と苦笑いした。
高校を卒業し、06年にセレッソに加入。同期には、香川真司や柿谷曜一朗といった選手がいた。
「あの時の僕らの新人は鬼のように練習させられていました。それで走ることを覚えました。当時は鬼プレスとか、めっちゃ言ってましたが、それを出せるのが練習試合しかなかったので、代表のアジアユースに行けて良かったです。それをうまく出せましたし調子も良かったですね」
06年10月から11月にかけてインドで開催されたこのアジアユースでの思い出として語るのが林彰洋とのエピソード。
「林とはずっと同じ部屋でした。ゲームやったり観光したり。あと覚えているのが、試合が終わった後にこっそりとカップラーメン食べたりしたこと。インドのご飯はあまり口に合わなくて、それで勝った試合の後に食べるという約束をして食べたのが上手かったなぁ。食事などは大変でしたが、アジアユースはいい思い出でした」
2勝1敗でグループリーグを突破した日本代表は、決勝トーナメント初戦のサウジアラビア戦を2−1で勝利し、ワールドユースカナダ大会の出場権を獲得。この大会で3ゴールと活躍した森島ではあったが、帰国すると厳しい現実が待ち構えていた。
所属していたC大阪は成績不振に苦しめられており、最終節の敗戦によってJ2降格が決定する。チームからは多くの選手が去り、迎えた07年もシーズン序盤の不振の結果、指揮官が交代。5月初旬にレビー・クルピが監督に就任する。そんな07年は、森島のメンタルの弱さが出てしまうシーズンとなった。
森島のサッカー人生を語る際に、忘れてはならないのが07年に開催されたU20ワールドカップカナダ大会であろう。この大会においてU20日本代表は大人気となったビリーズブートキャンプのゴールパフォーマンスなどで話題をさらい、日本国内のみならず開催地カナダの地元民にも愛された。
森島自身もグループリーグ初戦となるスコットランド戦では泥臭くGKのクリアボールを体に当てて入れ替わり、無人のゴールにシュート。また、決勝トーナメント初戦のチェコ戦では、PKでの得点後にドラゴンボールのかめはめ波のゴールパフォーマンスを見せるなどのびのびとプレーした。
元日本代表の森島寛晃さんにあやかった「デカモリシ」の愛称も広く浸透しており、森島の知名度は抜群に高かった。
目立つ森島は、メディアにとって見出しの立つ選手の筆頭となる。カナダからの帰国後、連日のように新聞記事が出稿され、それにストレスを感じる一方、街を歩いていても声をかけられた。そうやって彼の周りには人が多く集まり、チヤホヤされる日々が続いた。そして森島は、堕ちる。
「ワールドユースに行って、良すぎた。そこでそこでオレは狂った。調子乗りました。一番やったらアカンことばかりやってたから。だからそれはレビーにも謝りたいところです」
いっぱしの有名人気分を味わっていた当時を思い出し、森島は表情を曇らせた。絞りだすように言葉を紡ぐ森島のその様子が、失ったものの大きさを物語っていた。
「オレも嘉人さんみたいな性格やったらいいなと思う時もある。もっとなんか、うまくやればよかった。でもうまくやるのはムリやったなぁ。あれはああなるしかなかったんかなとか。ほんま、気持ちが弱いんですよ。メンタルが弱いんですよ。だから違うところに逃げて、調子乗って…」
多くを語ろうとしない森島の07年を語る言葉の端々から、クルピ監督に対する申し訳のなさや、大久保への憧れ、自分に足りないものの大きさを痛感しているように思えた。
森島が名前を上げた、大久保嘉人はそんな森島の話を聞いて一刀両断にする。
「あれで狂うようじゃ、ダメだよね。そこまでちやほやされていないと思うし。それで狂うようじゃ、ダメだね。そもそもワールドユースなんて全然関係ない。あんなの出ようが出まいが意味が無い(出た後に、出場経験をどう活かすのかに意味がある)。
誰が出ようがあの時に出たやつが今どれだけ残っているのか見たらわかるわけでね」
メディアとの付き合いにしても、大久保は「おれはそういうの(記者とのやりとり)を楽しんでた。『ウザい』じゃなかった。記者さんなんかに対しても面白いことを言って、新聞に載る。それはこっちの勝ち。もちろん性格もあると思うよ。そういうのが苦手な人も居るやないですか。でも、この世界に居るわけで、自分を伝えるためにも、書いてくれる人がおるからね。そこは上手くやれるといいと思うよ」と話す。
ちなみに大久保は、新聞に書かれるような事をわざと口にして、それを報じさせることで自らにプレッシャーをかけてきたという。そしてそのプレッシャーを楽しみ、プレーへのモチベーションに変えてきたと話す。
記者とのやりとりを高校時代から続けてきた大久保のような境地に森島がたどり着けるかどうかは、大久保も述べているように性格もある。ただ、常に記者に付きまとわれるプロサッカーの世界に居るのだから、考えを変えてみるのも悪くはないと個人的には思う。メディアを使えば自らの商品価値を高めることも可能。プロなのだからそれくらいにしたたかに生きてもいい。
話がそれたが、森島は08年の7月にセレッソから大分へと移籍。移籍するだけの出来事があったはずの08年については森島は「セレッソから出たいという気持ちが凄くあった08年の半年間は、マジで自分に対して今でも殴りたいくらい。本当に。『何? もう、どうしたのお前?』って言えるくらい。だからホンマに馬鹿でしたね」と後悔の言葉を並べる。
覆水盆に返らず。勝ち気と弱気が同居する森島は、その時々の判断を、感情に流されて決めてきたのかもしれない。冷静になって初めて見えてくる過去の過ちを反省できるのがその傍証である。ただ、過ぎ去った時間は元には戻らない。
移籍直後の大分でナビスコ杯を優勝するが、翌09年に経営危機が発覚。09年に億の単位の移籍金で大分に完全移籍を果たしていた森島がJ2に降格した2010年以降、憎悪の対象となる。「死ね」というような酷いレベルのヤジを飛ばされ、愛車にいたずらをされ、そして脅迫を受ける。全てとばっちりなのだが、何をしていても目立つ森島は、はけ口を求めていた弱き人々の格好の攻撃対象となった。
「2011年には社長に言いました。サッカーのことならまだしも、サッカー以外の事を言われたらサッカー出来ないですと。『死ね』とか『出て行け』とか。で、それを受け止める器もなかった。それで、そういう過去を昇格した時に言ったんですよね。そういうのも言わんかったら良かったと思いますし、言った自分はまだ弱かったんだと思います」
酷い仕打ちを受けながらも森島は、2012年のJ1昇格プレーオフの準決勝京都戦で4ゴールを決めてチームの決勝進出に貢献。千葉との決勝戦では、林丈統の決勝ゴールをアシスト。大分をJ1の舞台へと引き戻す活躍を見せ、そして試合後には大分サポーターや大分県民への謝意を口にした。ただ、大分は昇格した2013年のJ1で結果を残せず、1年でJ2に降格。そんな中、森島はわずか40%の出場率ながらリーグ戦7ゴールを決めるなど一定の活躍を見せた。そんな自負もあり、2013年12月22日の天皇杯準々決勝での敗戦の翌日のオファーを前向きに捉えられた。
「23日か24日だったと思いますが、フロンターレから話があるよと言われマジでビビりました。だってフロンターレですよ。絶対に出られないと、思いました」
そんなフロンターレへの移籍を決めたのは二つの理由がある。「上手くなるため。そこだけです。監督のサッカーも魅力でした」
そしてもう一つが大久保嘉人からのアドバイスである。
「的確でした。『絶対にうまくなるよ。おまけに26で来れるならマジで幸せだぞ』と。その言葉もオレは忘れなかったですね。『たぶん出られんと思うよ』とも言われました。でもオレはそれは覚悟してました。簡単には出られないと思いますが、絶対にうまくなるとオレは思ったんです」
そんな森島について大久保は「26歳でここにこれてね、ホント良いと思うよ。オレも若い時に来たかったよ。どれだけ上手くなったんやろう。全然違う。全然違うよ。本当に若い時に来たかった」と述べつつ「いいものはマジで持っているから、あのデカさでスピードもないわけじゃない。まあまあある。パワー、ある。強い。足下も結構やるから。なにげに(色々な能力が)そこそこのレベルで備わっているから、うん」と潜在能力の高さに太鼓判を押す。
基礎技術の高さについてはGK新井章太の証言もある。
「巻いて蹴るシュートについては、左右どちらに蹴り分けてくるのか、蹴る直前まで分からないので大変です。全く同じモーションで蹴り分けてくるので。また左右どちらの足でも同じくらいの強さのシュートが蹴れるので、それはすごいと思います」
結果的に決断は自分で行ったというが、実際にフロンターレにやって来て森島には見えたものがあったという。
「(上手くなるための方法論が)あるんじゃないかと思って来てみたら、あったですもんね。外し方とか、トラップとか。これは自分も身に付けたら行けるんちゃうかと思えました」
そうやって移籍してきた日々の中で、森島はまだまだやらなければならない事の多さを痛感している。
「(出番がもらえていないのは)予想通りです。メンバーにも最近は入ってないですが(取材日は4月1日のWシドニー戦前)、厳しいですよ。厳しいところに来たし。まあでも、川崎フロンターレの選手として出るための準備だと思っています」と前を向く。ただ、自分は自分だとの自負も捨ててない。
「おれは大久保嘉人にはなれないし、中村憲剛にもなれない。だから自分の良さも出したい。でもまずはフロンターレのサッカーを、風間さんのサッカーを身に付けるしかない。風間さんのDVDも見ましたし、足りないところがわかりました。あとは言葉よりもプレーで出していくしか無い。早く等々力で出たいですね。だって移籍組では先発で出てませんもんね。まだ2分ですよ。何もしてないです」
その後、初先発出場となった等々力でのACL・WSW戦でクロスバー直撃のシュートを放ったことについて大久保は「持ってない。持ってる奴はあそこで決めるから」とバッサリ。ただ、「いいところに来たよ。よく来れたよ。そこは、持っているね」とフォロー。
クロスバー直撃はサポーターに印象を残したのではないかと大久保に問いかけると「確かに印象は残したけど、印象はだれでも残せる。オレの子供でも残せるよ。『ああ、小さい子いるね』というね。だから印象はどうでもいい。結果。数字が出てこない限り意味が無い。でも、ゴール前に走りこんだり、ポジショニングだったり、そういうところがまだあいつには欠けてるんだよね。『そこにおっても点取れんやろう』というところにおるから。もっとゴール前におって、ごっつぁんでもいいやんというね。でも、1点取ればかわるかもしれないし、楽しみと思うよ。これからどうなるかがね」と期待を込めた。
小林悠の欠場により、先発のチャンスを手に入れた4月6日の徳島戦。森島は交代の順番が入れ替わったことで移籍後初ゴールを決める。”持っている”このゴールについて大久保は試合後「あいつのゴールは、たぶん足が痛くて動いてなかったのが良かったんじゃないかと」と述べてポジショニングについて改めて言及している。
大久保からのこれらのアドバイスに加え、実際に点を決めたことで森島のゴールへの意識はどう変化していくのだろうか。ちなみに風間八宏監督は森島について徳島戦を前に「意識がよくなってきたね。うちのサッカーは自分が本気にならないとダメなサッカーだからね。でも、最初は何をしているのかはなかなか分からなかったと思いますよ。でも、分からないのが普通。FWの選手は難しいし、逆に言うと簡単にやっている嘉人とか悠たちのほうがおかしいのかもしれない(笑)」と述べていた。
一定水準の高さの基礎技術を認められている森島は、これからのフロンターレでのキャリアの中で、心身共にどんな成長を見せてくれるのか。そんな森島が褒めて伸びるタイプなのは間違いない。だだ、褒めすぎると調子に乗る危うさがある。自己顕示欲が強いというか、自らを認めてほしいという気持ちが強い部分があるのかもしれない。
もしかしたら、直接的な言い回しではあるがただ単に人に愛されたいだけなのかもしれない。そんな森島は後悔と共に悩み多き人生を過ごし、そしてフロンターレへとたどり着いた。これから彼がどんなサッカー人生を送るのかはわからないが、少なくとも過去の自分の悪さを反省できるのは、成長の余地を残しているという事でもある。”持っていないわけではない”森島の、これからに期待したいと思う。
大分トリニータから完全移籍で加入した大型FW。空中戦や体のぶつけ合いで抜群の強さを誇るが、近年は足下でつなぐサッカーにも取り組み、少しずつ前に進んでいる。
1987年9月18日
兵庫県神戸市生まれ
ニックネーム:デカモリシ、デカ、モリシ