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SEASON 2015 / 
vol.10

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MF7/KOJI

ステイ・ハングリー

MF7/橋本晃司選手

テキスト/高尾浩司 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Takao,Koji photo by Ohori,Suguru (Official)

天性のサッカーセンスの持ち主として、早くから注目されていた。
大学1年の終わりにプロの世界に足を踏み入れ、将来を嘱望されるようになった。
しかし、名古屋と正式に契約してから3年間、公式戦で15試合の出場にとどまった。
この後に下した決断と新天地での日々が、橋本晃司のいまにつながっている。

何かをたくらむ小学生

 1本のビデオテープとの出会いが運命を変えた。小学2年生のときに父親が買ってきた1994年のワールドカップ・アメリカ大会総集編。イタリアの10番、ロベルト・バッジョのプレーに夢中になった。
 決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦で終了間際に決めた同点弾、ブルガリアとの準決勝で挙げた2得点、決勝でのPK失敗。ビデオに収められていたバッジョのプレーをいまでも鮮明に覚えている。イタリアは準優勝に終わったけれど、大会の主役はバッジョだったのだと幼いながらに感じた。
 そして、すぐに行動に出た。「途中で投げ出すな」と両親に言われ、幼稚園生のときから続けていた水泳教室は約束だった1級合格を果たすとすっぱり辞め、石川県内で最も強い金沢南サッカースポーツ少年団(現金沢南ジュニアサッカークラブ)に加入。週に一度、少年団での練習に取り組むようになった。練習がない日は、放課後に同じ学年の友人とボールを蹴る。夕飯が用意される少し前の18時ごろに家路につくとランドセルを部屋に置き、家の前でひとりリフティングを続けていた。
 小柄だったため、技術にこだわりを持っていた。金沢南SSSの大音与志雄監督が個人技を重視する指導者でドリブルなどボールを扱う練習に時間を割いたことも手伝い、高学年になるころにはチーム屈指のテクニックを備えていた。
「大きい選手が俺のマークについたら、『こいつをちょろまかして(だまして)やろう』と思っていた。相手の裏をかいたり、股の間を抜いたり、キックフェイントでかわしたり、何かをたくらむヤツだった」(橋本晃司、以下同)と当時を振り返る。
 小学5年時に公式戦に出場し始め、最終学年では絶対的なエースとして活躍。家長昭博(現大宮アルディージャ、当時は京都長岡京SS)や前田俊介(現コンサドーレ札幌、当時は高田FC)をはじめ、のちのJリーガーも出場した第22回全日本少年サッカー大会に出場。金沢南SSSは決勝トーナメントに進むことができなかったが、この年、橋本は例年チームが選定する最高殊勲選手賞(年間MVP)を受賞した。
 中学に進むとサッカーへの情熱は一層強くなる。部活動ではなく金沢市内有数のクラブチーム、ヘミニス金沢で活動を始めた。
 片道40分の道を親に送ってもらい、練習が始まるのは夜7時から。開催場所は日にちによって異なり、中学や高校の部活が終わった後に、空いたグラウンドを使わせてもらっていた。週に3度のクラブチームの練習以外は、顧問の先生の理解を得て中学のサッカー部の練習にも参加。サッカー漬けの日々を送っていた。
 当時のポジションはトップ下、ゴールにアシストと、得点に絡む全ての仕事をこなした。
「ローマ(イタリア)のトップ下でキレキレだったころの(フランチェスコ・)トッティのプレーをよく見ていた。その後、中田英寿さんがローマに移籍して、俺の周りもローマがどうとか言い始めるわけなんだけど、俺は前からローマというクラブを知っていたから、何か嫌だった(笑)。『おまえらとは観戦歴が違うんだ』って」
 海外サッカーに精通しているだけでなく、ピッチ内での質も高かった。中学1年時にはU-14の北信越トレセンに選抜選考され、全国研修会に参加。そこでJリーグの育成組織でプレーする選手たちと切磋琢磨することによって、もともと備えていた攻撃センスをさらに磨くことができた。2年時と3年時には日本クラブユース選手権(U-15)大会にも出場。おぼろげながら、全国での自分の立ち位置が分かった。
 サッカーは好きだけど、自分よりうまい選手はたくさんいる。
「トレセンの研修会や全国大会を経験することで、上には上がいると肌で感じた。Jクラブの下部組織の選手は純粋にかっこよく見えたし、実際、上手だった。だから自分は意外と現実的というか、プロになんかなれないものと思い込んでいた」

MF7/橋本晃司選手

うるっさい関西人と雪国

 中学卒業後は、星稜高校に進学した。中学3年生のとき、鹿島アントラーズユースから声を掛けられたが、「ユースに入っても万事がうまくいくとは限らないし、(トップチームに)上がれなかったら路頭に迷うかもしれない。結局、一歩を踏み切れなかったというか、県内の高校でいいかと甘えていた」と、高校でサッカーを続けることにした。
 とはいえ、サッカーへの情熱はそれまでと変わらない。何より、星稜では刺激し合える仲間と出会うことができた。初めてサッカー部に合流した日のこと、新しいチームメイトと顔を合わせたことは全く覚えていないが、同期に「うるっさい関西人がいたのは覚えている(笑)」。本田圭佑のことだ。
「大人になってから、俺とアイツ(本田)は1年生のときから『しゃしゃり出ていた』といろいろな人に言われる。でも、先輩をなめていたというより、上下関係が分かっていなかっただけというか。2、3年生の先輩が精神的に大人で優しかったので、二人とも、それに乗じていたのかもしれない」
 1年のときから伸び伸びとプレーすることができた。小学校、中学校と地元のスクールやクラブチームでプレーしていたが、高校では授業でも部活でも同じ時間を過ごす。気心の知れた仲間と同じ目標に向かう中で、サッカーに没頭していった。
 特に楽しかったのが朝練習だ。フルコートを四分割したほどの大きさで行うミニゲーム。何の気なしに始めた当初は、本田など5人くらいしか集まらなかった。だが、続けているうちに、朝のミニゲームが日課になり、徐々に人数が増えていった。自由参加型で、1軍や2軍、学年に関係なく、全選手が好きなようにチームを組める。橋本も、「半分本気、半分遊び」の雰囲気でプレーできる朝練の常連だった。
「いつも始業時間ぎりぎりまでボールを蹴ってしまい、『やべー!』と言いながら教室までダッシュしていた。一旦朝礼に出てからトイレに行って汗ふきシートで汗を取る。その後、1限目が始まるまでの自習時間に母親がつくってくれたおにぎりを食べる。1限目が始まると、眠い目をこすりながら先生の話を聞く。そんな毎日が結構好きだった」
 忘れられない指導者とも出会った。高校3年生のとき、JSLのフジタ、プロ化後はベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)などで活躍した野口幸司さんが、星稜のコーチを務めることになったのだ。1試合5得点という、1試合でのJリーグ最多得点記録を誇る点取り屋。現役を退いてから数年が経っていたものの、ゴール前でのプレーの精度は衰えておらず、お手本で見せるプレーの説得力が違った。
 いまでも大切にしているアドバイスがある。「シュートを打つときは、コースを狙うこと」。どんな状況でもインサイドキックでコースを突く。多少距離があっても、相手との間合いやコースをずらしてシュートに持ち込むことがゴールへの近道なのだと学んだ。
「例えば、速いシュートを打つためにインステップキックを使うのには意味がある。でも、適当にシュートを打ったり、力任せに足を振り回したりするのはダメだ、と。いかに繊細にトラップとシュートに持ち込めるかがポイントだと教わった」
 技術に決定力を加えた橋本は、星稜にとって押しも押されもせぬ存在に成長していく。高校1年生のときから、チームは計6回もインターハイと全国高校サッカー選手権大会に出場した。最終学年のときには高校選手権で石川県勢初(当時)の準決勝進出を果たしている。それでも、プロ入りは考えなかった。現実味がなかったのだ。
 プロ入りを意識しなかった要因の一つは、中学時代に参加したトレセンの研修会にある。「あの場所に全国から集まっている選手たちは、そもそも自分とはスタートラインが違う。俺は好きでサッカーをしていたけれど、それを職業にするイメージがわかなかった」
 ここで言うスタートラインは、「環境」に言い換えられる。橋本が生まれ育った石川県は日本海に面し、12月から3月にかけて日常的に雪が降る。多いときは50センチ以上も雪が積もり、一度は降り止んでも、グラウンドが凍って使えなくなる。日替わりで市が所有する体育館でミニサッカーに講じる日々を過ごすことによって、雪がとてつもなく大きな問題だと感じるようになった。年間を通してサッカーができない環境・気候。橋本はそれを「プロになろうという発想が生まれないような土地」と言い切る。
「そんな欲なんて全くなかった。いやね、大阪から来たアイツがずっと言ってるんですよ。『プロになろう。お前もプロに行く気にならなあかんで』って。でも、俺は『プロになりたいのなら、何でわざわざ雪国に来たの?』としか思わなかった。
 お互いサッカーに対して純粋だったし、本田も俺の家によく来てレアル(・マドリード)の試合を一緒に見たりしていたけど、自分を追い込んで見知らぬ土地に来た本田と、地元でのんびり育った俺とでは、どうしても温度差がある。もちろん真面目にサッカーに取り組んでいたし、暗くなるまで練習していた。でも、だからといって、(プロになる)発想がポッと生まれるような単純な話でもない」

俺、プロになれるのかな

 高校を卒業すると、石川県を離れて東京の明治大学に進んだ。高校で日本一になったら、良い思い出のままでサッカーを辞めることも考えていたが、「日本の中心で遊んでこい」と父親に言われ、現役続行を決意した。当時関東大学リーグ1部に昇格したばかりのチームに合流し、その2週間後には実戦に出場。石川県で培った技術と天性のサッカーセンスを武器に、フィジカルで勝る相手を圧倒した。
 卒業後は社会人になる。サッカーに打ち込めるのもあと4年。好きなことに没頭できる時間を大事にしようと日々の練習に取り組んでいた矢先、転機がおとずれた。
「大学1年の終わりに名古屋グランパスと練習試合をしたとき、(セフ・)フェルホーセン監督(当時)が獲得の意思を示して、早いタイミングでJFA・Jリーグ特別指定選手に承認された。大学2年では東京と名古屋を行き来する生活が続いて、徐々に試合にも出させてもらえるようになった。たまたま本田とも再会して(苦笑)、それくらいから『あれ? 俺、プロになれるのかな』と思い始めた」
 それまで、「プロになれるわけがない」とどこかで思っていた。しかし、上京して初めて一年中サッカーができる環境に身を置いた。さらに、早い段階で名古屋のキャンプや練習に参加することでプロになるイメージが膨らんでいったのだ。
 特別指定選手に認定されたことで責任感も芽生えた。大学のリーグ戦などでは周りから「橋本=プロ予備軍」という目で見られる。だからこそ、相手との違いを見せつける意識が増した。ゴールに絡むのは当たり前。結果を残した上で観客を驚かせることも追い求め、プレーの質が上がっていった。2007年には、明治大に43年ぶりのリーグタイトルをもたらすなど大活躍。09年に名古屋と正式契約を結び、晴れてプロサッカー選手になった。
 あれほど遠かったプロの世界に、ようやく足を踏み入れる。それでも、喜びに浸る時間はなかった。正確にいうと、喜びに浸る時間がいつなのか分からなかった。
「悪い意味で(プロの空気に)慣れてしまっていたというか。約3年間、特別指定選手として練習や試合に参加していたから、俺が正式にプロになっても『やっとなの?』という雰囲気だった。俺自身、プロになったときにカチっとリセットすべきだった。それなのに、大学生のままのメンタリティーでそのままプロ生活を続けて、ガツガツいけなかった」
 当時の名古屋は絶頂期にいた。10年のチームは前線にケネディや玉田圭司に金崎夢生、最終ラインに闘莉王、ゴールマウスには楢﨑正剛と錚々たるメンバーを擁し、リーグ戦は最終節を待たずしてすんなり優勝した。「練習で調子が良くなくても、試合になると勝ってしまうチーム」。したたかに勝ち点を積み重ねる姿は、ライバルからすれば憎たらしいほど強い集団と映っていた。
 分厚い選手層を持つチームでアピールするのは至難の業だ。代表クラスひしめく名古屋にあって、橋本は「最も高いところを基準にプレーしよう」とどん欲に練習に取り組んだ。「トゥーさん(闘莉王)に怒られたり、楢さんにことごとく止められて、シュート練習で自信を失いかけたりしたこともある。でも、それは普通のチームでは経験できないこと」
 11年、プロになってから3年間過ごした名古屋に感謝の念を持ちつつ、プレーする時間を求めて移籍を決意した。

何かを心底つかみ取りたい感情

 再起を懸けた場所は、J2の水戸ホーリーホックだ。J1クラブからもオファーはあった。だが、あえて退路を断った。もうベンチを温めていても仕方がない。コンスタントに試合に出場して、結果を残さないといけない。それも叶わなかったらサッカーを辞めるまでと腹をくくった。逆にいうと、それまでは必死になったことがなかった。
「ここで勝負しないとダメだな、と。名古屋に行くまでは、壁にあたったこともなかった。『この試合に負けたらヤバい』『ポジションを奪われたら終わる』とほか選手たちが何度か経験するようなことを、俺は感じてこなかった。だからダメなんだろうと客観的に思った。でも、水戸では一度、死にもの狂いになる必要があった。サッカーに打ち込むために水戸に行った」
 何もかも用意されているJ1と異なり、お世辞にも良いとは言えない練習環境。河川敷の練習場は日差しを遮るものがなく、特に夏場は猛暑の中での練習を強いられた。水はけが悪く、大雨が降るとグラウンドはすぐにぬかるむ。それでも、サッカーに打ち込む上ではたいした問題だと思わなかった。来る日も来る日も、全体練習が終わった後にはシュート練習に取り組んだ。周囲のサポートにも恵まれた。02年の日韓ワールドカップで日本代表に大会1点目をもたらした鈴木隆行。プロの世界の苦楽を知る大先輩がチームの誰よりも練習する姿を間近で見た。ピッチ外でも親しくしてもらった。「鹿島からの期限付きで加入した川崎フロンターレで出場機会を失ったとき、サッカーを辞めようと思っていた。でも、もう一度、鹿島からチャンスをもらった。鹿島に復帰した後、点を取り始めて日本代表に入ることもできた。それがあのベルギー戦のゴールにつながっている。チャンスはいつ、どこに転がっているか分からない」という言葉は特に心に残っている。自分も鈴木のようになりたいと思えた。そして、強い欲が出てきた。
「とにかく、結果を出すことにこだわっていた。周りや相手は関係なく、全ては自分次第。俺自身が問題と向き合って結果を残せば、また上にいけると。上にいくことにしか考えていなかったし、人生で初めてハングリーになったかもしれない。それまでにも勝ちたいと思うことはあったけれど、何かを心底つかみ取りたいという感情が、水戸に行って初めて生まれた。その意味では、自分を受け入れてくれた水戸はもちろん、『またあの場所に戻りたい』と思わせてくれた名古屋にも感謝している」
 水戸での2年間でリーグ戦77試合に出場、18得点を叩き出した。復活を印象付けたと同時に、遅まきながらプロとして真のスタートを切ったともいえる。どん底を知った男が、自分の手でJ1の舞台にはい上がってきた。

もうちょっとガツガツ

 攻撃的なスタイルで相手を圧倒する川崎フロンターレが大好きだという。
 チームでは、中盤の底を任されている。学生時代は1.5列目、水戸でもセカンドトップを担ってきたが、大宮時代からボランチとしてプレーすることが多くなった。当面のテーマは、チームでの役割をこなしながらも自分の色を出すこと。フロンターレに加入した当初は攻撃を組み立てること、「ボランチっぽいプレーを意識し過ぎていた」というが、最近は攻撃に絡むイメージが明確になってきている。
 やるべきことがはっきりしてきた分、なかなか試合に出場できていない点はもどかしい。「早く(試合に)出てよ」とファン・サポーターに言われると、申し訳ない気持ちになる。出場機会に恵まれていない現状を自分以外の何かの責任にするつもりはない。「そのときのために準備するだけ」と黙々と公式戦に備えている。
 取り戻さなければいけないと思っているものもある。「生意気な小僧だった」高校時代のメンタリティー、結果を出すことだけ考えていた水戸時代のハングリーさだ。
「水戸にいたころの気持ち、大宮にいたころもあったんだけどね。チームによって、ガツガツいくことを必要とされないところもあるけど、それを差し引いても、いまはちょっと淡々とやり過ぎているかなという気がする。もうちょっとガツガツいく部分、それは足りないかもしれない」
 自らを追い込んでいたころのハングリーな姿を取り戻すことはできるか。ポジションやチームメイト、自らの立場に関係なく、結果を残すことに集中できるか。どん欲に戦い、サッカーを楽しむことを、橋本自身が一番望んでいる。

マッチデー

   

profile
[はしもと・こうじ]

大宮アルディージャから完全移籍で新加入。相手の意表を突く天性のパスセンスと2列目からの攻撃参加、そして左右両足のミドルシュートが武器の攻撃的MF。水戸ホーリーホックでは2013年のリーグ戦で12ゴールを挙げるなど、チャンスメイクだけではなく得点力も期待できる。新天地でその才能を開花させることができるか。

1986年4月22日/石川県、
金沢市生まれ
ニックネーム:コージ

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