コーチ 望月達也 Coach/Mochizuki,Tatsuya
テキスト/麻生広郷 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Aso,Hirosato photo by Ohori,Suguru (Official)
2013年からトップチームのコーチを務める望月達也。「クラブに携わる仕事は8割方やったんじゃないかな。無駄に長いだけだよ」と冗談めかして笑う。27歳のときから指導者に道に進み、今年50歳。サッカーに対する信念と人間性を多くの人から認められ、長くサッカー業界で生き抜いてきた。そのキャリアは伊達じゃない。
40歳以上のオールドファンに聞くと、清水東の望月達也といえば静岡のサッカー少年たちのヒーローで、奥寺康彦、尾崎加寿夫に続き海外のクラブでプレーした稀代のテクニシャンだという。だが当の本人は「周りの人はいろいろ言うけど、自分自身を評価するとしたら結局は力がなかったから現役生活を長く続けられなかったんだと思いますね。本当に力があったら、オランダリーグ一部の上の方のチームでやれたんじゃないかな」と現役時代を淡々と振り返る。
当時はJリーグという道がなく、サッカーを志す者は大学から社会人に上がってサッカーを続けながら仕事をするか、スクールで子どもたちにサッカーを教えるというのが大半の流れだった。だが望月は清水という特殊な環境で生まれ育ち、当時からすでに海外に目を向けていた指導者にも恵まれ、ヨーロッパやブラジルのサッカー事情を肌で感じることができた。その結果、望月は中学を卒業する手前あたりから「海外でサッカーをプレーしてメシを食いたい」と強く思うようになっていた。
そういった環境もあり、望月はかつてルート・フリットも在籍したHFCハーレムでプレーするチャンスを得た。ただ現実はそんなに甘いものではなく、プロ契約ではなくアマチュアの立場で、通訳もいない環境だった。ホームステイでオランダ語は少しずつ覚えることはできたが、サッカーも同じように上達するかというとそうではなかったという。
「ボールを扱うことに関してはオランダ人に混じってもそれなりにやれたんですけど、個人戦術やグループ戦術といったことは当時、全く理解できていなかったですね。1年目は途中交代でゲームに使ってもらっていましたけど、2年目はサテライトでの出場が中心。3年目はプロ契約できないならと移籍を希望して二部のクラブのテストを受けましたけど不合格で、最終的にSCテルスターというクラブの監督の家に直接電話をかけて自分で交渉したんです。そして微々たる交通費ぐらいしか出せないという条件のなかで1年でどうにか結果を出して、4年目にしてようやくプロ契約にこぎつけることができました」
そして望月は4年のオランダ生活を経て日本に戻り、ヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に加入。だが実質的にトップチームの試合に絡んでいたのは2年目の最初の頃までで、その後は怪我もあって思うようなパフォーマンスを発揮することができず、二軍暮らしが続いた。
「もともと僕は中盤の選手だったんですけど、2年目ぐらいからサイドバックにコンバートされていて、自分としては納得がいかないままプレーしていました。当時移籍は状況的に難しかったなかで、ヤマハでの4年目のシーズンが終わり、サッカースクールの指導者をやってみないかと言われたんです。もうカチンときてね。わかった、じゃあ辞めてやるよって(笑)。そこからですね、指導者になったのは」
望月は27歳で現役を引退。ヤマハ発動機のサッカースクールのコーチに就任し、指導者としてのスタートを切った。ジュビロ磐田、アビスパ福岡、湘南ベルマーレ、ベガルタ仙台、清水エスパルス。役職で言えば育成普及、育成統括、コーチ、監督、スカウト、フロント。さまざまなクラブ、さまざまな立場でサッカーに関わった。そして2年間一緒にGM講座を受けた庄子春男(川崎フロンターレ取締役強化部長)との縁で、川崎フロンターレのトップチームコーチに就任することになった。
「フロンターレに来る前に清水の強化部長をやっていたんですが、当時移籍ルールが大幅に変更され主力選手が一気にクラブから出て行って、運営的にはけっこうきつい時期でした。そんなときに庄子さんにいろいろ相談をしていて、もし何か困ったことがあったら相談に乗るよと言われていたんです。ただ清水での移籍問題などの諸々の事情もあり、もう1年間は清水でしっかりと強化育成に関する仕事をして、もしチャンスがあったらという話はしていました。他のクラブからもオファーをいただいていたんですが、個人的に庄子さんにお世話になっていましたし、湘南以外では関東で仕事をしたことがなかったこともありました。フロンターレというクラブのポテンシャルの高さも魅力的だったので、チームを良くしていけるサポートができたらという思いでお世話になることにしました」
業界関係者から望月に声がかかるのは、やはり本人のサッカーへの情熱と人間性を評価されてのものだろう。だが指導者の道も現役時代と同じように順風満帆というわけではなく、さまざまなケースはあれど監督代行も4回ほど経験している。その一回は昨シーズン、相馬直樹監督(当時)の解任を受けてのものだった。
「チームがうまく機能しなくて結果的に直樹が責任を取る形になってしまったので、僕自身も責任を感じています。周りがどういう風に思っていたかはわからないですし、高校の先輩だからというわけじゃないけど、直樹は自分のことを受け入れてくれた人間だから、とにかく少しでもサポートできればという思いでした。クラブに来たときも『俺は取って代わって監督になるつもりなんてまったくない。直樹がやりたいことをサポートするスタンスでここに来た』って直接話をしましたしね。だから正直ショックでした。だけど、勝負の世界、サッカーの世界ってそういうものですから。これは今でも思うことですが、僕自身まだまだ力不足だし、勉強不足だったなって感じています」
フロンターレでは監督代行として3試合を指揮。代行という立場、そして短期間で流れを変えなければいけないという厳しい状況のなか、望月が一番に考えたのは、自分が外から見たフロンターレの印象をピッチで表現することだった
「フロンターレはスピーディーで攻撃的なサッカーが得点につながる印象だったので、それだけを意識して取り組みました。簡単な話、点が取れないなら取るためにどうすればいいのかなと。結果的に失点も食らいましたけど、やり方によっては点を取れるようになるよと。ただ、ガンバ戦は自分のミスでチームを勝たせられなかった。2-0でリードして僕がちゃんとやれば3点目を先に取って失点1ぐらいで勝点3を取って帰る可能性が高かったのに、ひっくりかえされてしまった。最悪でもアウェイでガンバ相手に引き分けだったら、そんなに悪い結果じゃなかったんですけどね。どんな形でもいいから結果を手に入れて選手を心理的に楽にして、そこから次の監督に渡すのが大きな役割だったので、あの試合は選手に申し訳なかったと思っています。ベンチの失敗というか僕の失敗ですよ、あれは」
チームはその前のシーズンから苦しい時期が続いており、選手の間にもすっきりしない気持ちが渦巻いていたのは確かだった。「選手たちも何とかしなければいけないという思いだったんじゃないかな」と続ける。
「監督が責任を取る形になりましたけど、ピッチでプレーするのは選手。だから自分たちも何かしらアクションを起こさなきゃいけないという意識が強かったですし、実際にグラウンドで練習をしていても責任感みたいなものが伝わってきていたので、その部分ではハッパをかけたりプレッシャーを与えたりということは必要なかったですね。とにかくみんなで目的を明確にして結果を取りにいくと。そういう意味では選手たちも少し吹っ切れたというか、自分たちのいいところを思い出した感はありましたね」
フロンターレのトップチームのコーチとして2年目。監督の考えを選手に伝えることに加え、その色に染まるだけではなく、さまざまな物の見方から理解させることをしていきたいと話す。勝ち負けにこだわっていく上で、監督の意向を選手がどう理解するかということと同じように、コーチ陣も監督のサッカーを理解しなければいけない。ディテールでまだ埋めていかなければいけない部分はあれど、今年は監督の考えをある程度理解した上でチームの結果につなげていく。望月はさらに個人の成長という言葉を挙げた。
「個人の成長がチームの結果を左右する部分があるので、選手個別のアプローチというか、選手とともに成長していくと。こういう見方はあまりしたくないですけど、現実的には選手というのは変えられるものとこれ以上変えられないものがあると思うんですね。だけど選手の可能性、とくにストロングポイントを引き出すことに関して僕らはまだまだ力不足で、彼らの潜在的なものを顕在的にしてあげられていないと思います。そこにアプローチをかけてチームの結果に還元されるようになればいいなと考えています。
またクラブとしての目標があるわけですから、当然そこはブレずにやらなければいけない。あとは選手個々がサッカーを深く理解すること。ヤヒさん(風間八宏監督)がよくサッカーを楽しむって言いますけど、そのためにはいろんなものを選手のなかで変えていかなくてはいけないし、僕らコーチ陣も変わらなきゃいけない。そこが今年の一番やるべきことだと思います」
チーム力を構成するいくつかの柱をさらに細かく切ったときに、まだまだ力が足りないと分析する。レギュラークラスから下の若手に刺激を入れていく必要性も感じているという。だがその一方で、今年の北海道キャンプで選手の姿勢を見たときに、自分たちでやろうという意識が出てきていると話す。
「選手層に関してはまだまだ物足りないよねと監督からオーダーが出ています。去年を含めてですけど、たまたま怪我人が多くて何人かの選手が試合に出てプレーして、そこで結果を出せた選手もいるし、チャンスをものにできなかった選手もいる。だけど怪我人が多かったからではなくて、力がついたから必然的に競争という土俵に上がったという形にならないと、本物としてサッカーでメシは食えないと思います。レギュラーの選手の力を上げることは当然として、セカンドグループ、と言うと彼らには申し訳ないですけど、選手層の厚さがもっと出てきて、チームの新しいエッセンスとして加えていけるようなものが出てくれば、いろんなゲーム構成ができると思いますね」
単なるきれいごとではない。選手だけではなく指導者をも取り巻くプロフェッショナルの競争社会を生き抜くリアリズムがなければ、長く第一線に居続けることはできない。だがその一方で、サッカーに対する熱い思い、そして自分を助けてくれてきた人たちへの思いに報いることが、走り続ける原動力になっているのではないだろうか。
「好きな仕事でもありますけどシビアな話、生活をしていかなければいけないわけで、当然自分のためでもあります。でも、いまだに僕らの世界って人のつながりが強いし、周りの人たちに助けられてるなって感じます。僕自身の経歴としてはJリーガーではないですけど、長くやってるぶんだけ知っている人も多い。これまでクラブで仕事をされている方々はもちろん、それ以外でも移籍する際に代理人の方やマネジメントをやっている方にも助けてもらっています。そういう意味でも、いまこうして仕事をさせてもらっていることに感謝しなければいけないなって、ふと感じますよね。
感謝という意味ではサポーターも同じで、自分たちもクラブの一員という認識のなかで温かく応援してくれる人が多い。たまにブーイングもありますし、人によっては甘っちょろいという意見も聞きますけど、僕らはどういう状況であれ応援してくれる人には感謝をしますし、これからもそういうスタンスでいてくれればありがたい。実際に普段の練習にも見に来てくれますし、声もかけてくれますしね。この前、アカデミーの試合を観に行ったんですが、そこでも熱心に応援してくれているわけです。カテゴリーを超えてクラブを支えてくれているのもありがたいことですよね。そうやってクラブを支えてくれている人たちのためにも、恩返しとか偉そうなことじゃないですけど、また見に来たい、応援をしたいというサッカーをしていかないと。そこには当然、選手たちが自分たちの良さを出して楽しんでサッカーをやっているというスタンスがないといけないです」
自身は50歳という節目を迎え、自分の中でこの先どうやってこの仕事をやっていくかと考えたとき、可能性のある子どもたちにサッカーを通して何かを与えたいという漠然とした思いも芽生えてきたそうだ。それをキーワードで表現するとしたら人材発掘や選手育成というものだろうか。
だが、まだまだ勉強不足。もっとサッカーを学び、指導者として選手にいい結果を出してもらい、みんなで喜びを共有したいと話す。それが現場のコーチなのか、監督なのか、もしかしたらフロントの仕事かもしれない。しかし、それはまだ先の話。今は居心地がいい現場で監督の言葉を噛み砕いて選手に伝え、コーチの目線で気づいた点は自分なりの言葉でアドバイスを送る。ときに厳しい言葉を投げかけ、ときにおどけて場の雰囲気を和ませる。その向上心と人柄が周りの人々を引き寄せるのかもしれない。
「どこのクラブでも難しいことは多々ありましたし、指導者になってから人との関係、成績を含めて、長く腰を落ち着けられなかったという現実もあります。でも…、なんて言ったらいんだろう。人とのつながりがダメになったらおしまいですよね。人間関係で嫌だなって思うと、はっきり言っちゃって辞めちゃうタイプなんで。そこが自分のこだわりというか。ただ自分も歳を取ったんで、物の考え方、見方もだいぶ変わってきましたけど。
この前コーチ陣とも話をしたんですけど、世の中にはいろんな人がいて、割り切って考えた方がいいときもあるよねって。でないと、正直やりきれないときもある。そうでしょ?
だから粛々と仕事をやっていきますよ。粛々とね(笑)」
(敬称略)
2012年よりトップチームのコーチに就任。若くして指導者の道に進み、いくつものクラブに関わりながらさまざまな役職の仕事を経験した。サッカーに対する厳しい目と陽気な人柄は、選手だけではなく多くのサッカー関係者から人望を集めている。
1963年4月20日/静岡県
静岡市清水区生まれ
165cm/72kg
ニックネーム:タツヤ