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SEASON 2013 / 
vol.10

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FW27/An,Byong Jun

一心不乱

安 柄俊 FW27/An,Byong Jun

テキスト/高尾浩司(週刊サッカーマガジン) 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Takao,Koji(Weekly Soccer Magazine) photo by Ohori,Suguru (Official)

2013年、大学No.1ストライカーの肩書きを引っ提げて川崎にやってきた。
涼しげな顔、常に笑いをとろうとする姿勢とは裏腹に、ピッチで豪快に舞う。
大久保、矢島、小林、そしてレナト。重量級のアタック陣にも引けを取らない。
そんな期待の大型FWの「これまで」を追う。

始動

 東京都国分寺市で生まれ、7つ年上の兄・柄哲(ビョンチョル)さんの影響でサッカーを始めた。当初は兄と一緒に公園でボールを蹴るだけだったが、小学校に入学してからも、サッカーへの熱は下がらなかった。同校の少年団に入団。安柄俊を取り巻く環境も、このスポーツに入っていく一因だったという。
「俺が行っていた朝鮮学校って、日本の学校とは違い、野球とかバスケットボールより、『球技イコールサッカー』っていう雰囲気がありました。実際、小学校のみんながボールを蹴って遊んでいましたし、それがサッカーを始めたきっかけと言えばきっかけです」

 毎日ボールと戯れていた小学4年生の時、父親の安弘栄(アン・ホンヨン)さんから、JFLクラブ、横河武蔵野FCの下部組織に入らないかと促された。父親は李忠成と親交があり、当時、李が横河のジュニアユースでプレーしていたことも手伝い、「父親同士の会話で、俺を『クラブに入れよう』となったようです」(安柄俊)
 学校での活動を続けつつ、公式の大会などには横河武蔵野のメンバーとしてプレーする、忙しい日々が始まった。

挫折

 ジュニアユースと学校の部活を掛持ちする日々は、中学校進学後も続く。しかし、サッカーを楽しむ感覚を、徐々に失っていった。小学時代は「バリバリのストライカー」でも、中学に入ると、成長期を迎えた周囲の選手たちにサイズで劣っていた。さらに、横河は中学校に上がる際、セレクションを開催し、複数の小学校から有能な選手を招き入れる、強豪だった。サイズのハンデに加えて競争にさらされ、それまで通用したプレーが通用しない。「体が小さかったので、どちかというとドリブルで相手をかわしてクロスを上げる、ウイング系」になったが、試合での出場機会はなかなか増えない。

 次第に、サッカーを続けることが苦痛になっていった。
 同じチームには小学校時代からともに戦いながらも、中学に進学してから身長が伸びずに出番を失った、「自分と似た境遇」の仲間がいた。一番の親友だった。その仲間が中学2年のとき、突然クラブを辞めた。

「それもあって、中3の夏になる前くらいに『俺も辞めたい』と思っちゃって。親と相談して、その後クラブの(石村俊浩)監督にも辞める意思を直接伝えました」

「辞める気満々でした」と振り返るが、監督から意外な応えが返ってきた。「俺は辞めさせる気はないからな」。練習場の真横にあるファミリーレストランで説得された。
「そのとき初めて、『俺は意外に評価してもらっていたんだ』と感じることができて…。『部活でやってもいいから、もう一回横河に戻ってこい』と言われ、本当にうれしかったです」

 うれし涙を流しながらオレンジジュースをすすり、自信を取り戻したことを、いまでもよく覚えているという。結局、3カ月間学校の部活に専念したのち横河に復帰し、その後はレギュラーとして奮闘。不安要素の身長は、170センチを超えていた。

DF3 YUSUKE 田中祐介

没頭

 中学の最終学年で試合に出場できるようになり、自信はついた。だがその後、東京朝鮮高に進学するとき、「ここで頑張って『プロになる』とはあまり考えていませんでした。当初は3年間、楽しくサッカーをして(高校生活を)終えようと思っていたんです」。

 言葉にすると、あっさりしている。だが、楽しもうとする感覚が強くなり、気がつくとサッカーにのめり込んでいた。
「自主練にハマっていて。というかシュート練習にハマりまくっていて。練習しただけ、うまくなるのがめっちゃ楽しかったんです。始めたのは中3の終わりかな? ちょうどそのころ、ジュニーニョ・ペルナンブカーノ(元ブラジル代表/MF)やピルロ(イタリア代表/MF)が長い距離から無回転フリーキックを決めるのを見て、『やばい!』と思ったのがきっかけです」

 中3の終わりから東京朝鮮高のグラウンドに行き、毎日練習した。練習、練習、練習。1日中、無回転フリーキックを蹴り続けたこともある。その結果、シュート自体の精度が上がった。普通のシュートを無回転で打てるようになった。高校になってからも、「いつもの」メニューを黙々とこなす。

 毎朝、チームの朝練の前に1学年上の先輩GK、朴一圭(パク・イルギュ=現FC KOREA)とシュート練習を行なった。先輩がストイックだったこともあり、長いときは2時間、シュートを打ち続けたという。

「果報は寝て待て」という諺があるが、安柄俊の場合、果報はシュートを打って待った。そして、高校2年の時、転機がおとずれる。新チームの結成当初は右サイドハーフだったが、FWのひとりが負傷。安柄俊のポジションが繰り上がり、高校生活で初めてFWを務めることになった。

 ここが、FW安柄俊の原点と言っていい。
「フォワードで起用されて最初の試合で点を取って。その後もフォワードのチームメイトがケガをしていたので、俺がずっと前のほうをやりました。そうしたら、10試合くらい続けざまにゴールして……。『俺、めっちゃ点、取れんじゃん!』と自分に驚いたのを覚えています(笑)」

 シュート練習の効果が試合で表れるのが、手に取るように分かった。シュートを打つ時、「この形は練習でやった」と思うシーンが何度もある。研ぎ澄まされているときは、シュートを打つ前から「これは入る」と思えた。その感覚が楽しかった。

 元北朝鮮代表のFWで、現役引退後は東京朝鮮高の監督として安柄俊の成長を見守った金鍾成(キン・ジョンソン)さんは、当時をいまでもよく覚えている。
「ヘディングもできるし、両足からシュートも打てる。プロになれるという確信まではなかったですけど、僕が見た選手の中では、素質的に一番。そこそこできるのに、常に先を見ていました。周りに比べて頭ひとつ抜けていたから、ときどき、試合で自分勝手になることもありました。『精神的に幼い』『先発から外したほうがいいんじゃないか』と周りに言われたりもした。それでも僕が『ビョンジュンは大丈夫だ』と自信を持って言えたのは、あの朝練を見ていたからです。ひとつのことに対して、精度を上げようというストイックさが、彼にはありました」

 練習の虫はやがて東京朝鮮高の「王様」としてゴールを決めまくった。
 活躍の場は高校だけに収まらない。高校3年時にU−17北朝鮮代表に選ばれ、初の世界大会を経験した。大会前に「人生で初めて」のひどい捻挫をして、本番でピッチに立つことはできず。しかし、得るものはあった。

「その大会でMVPに選ばれたクロース(現バイエルン)や双子のダシウバ(ラファエウとファビオ)が大会に出ていて…。でも、最後に対戦したスペイン、特にボージャン(現ローマ)が衝撃的すぎました。『何だ、こいつ!?」って。泊まっていたホテルで卓球の勝負をして、そこでは圧勝したんですけどね(笑)。真面目な話、あの大会の後『絶対、あいつらに負けたくない。いつかは肩を並べるため、もっと上に行きたい』という気持ちになりました」


転機

 高校を卒業する頃には、巷で話題の選手になっていた。川崎フロンターレだけではなく同じ関東のライバル、FC東京もその動向を注目していた。「高校のときの安くんを直接練習参加に誘うことはなかったけど、僕らの中で『まだ粗削りだけど、身体能力はすごいよね。面白いよ』という話はしていました」とFC東京の立石敬之強化部長。

 実際、安柄俊は、この頃からすごかった。進路に悩んでいた時、関東1部リーグ中央大のセレクションに参加した。ピッチの脇で、「来年、どんなヤツが入ってくるんだ?」と興味津々の上級生をプレーで驚かせた。点を取り、無回転フリーキックも披露。一発合格を勝ち取っている。

 ただ、花のキャンパスライフは、思い描くものと少し違った。「王様」だった高校時代と異なり、中央大にはプロに行く一歩手前の猛者たちが全国から集まってくる。レベルは上がり、競争も熾烈を極めていた。単純に、プレーでの壁もあった。特に苦労したのが、ボールの受け方。くさび、つまり中盤や最終ラインからの縦パスを収める動きだ。

「くさび(のパス)に入るタイミングとか、『くさびって何だよ?』とか思いながらも、練習していました(苦笑)。大学に入った頃はポストプレーが全然できなくて、1年生のときは白須さん(白須真介監督。当時はコーチ)にずっと教わって……。しかも先輩にもよく怒られていたから、本当、いろいろ言われ過ぎてパニックになって、練習が終わった後は『は〜……』って放心状態でした」

 特に3学年上で、寮で同部屋の村田翔(水戸→浦安SC)からは練習でも、試合中でも細かく指示された。それでもうまくプレーにできず、最初は優しかった口調が、しまいには「ボール収めろや!!」と荒々しくなった。こうした苦しい時期を経験しながらも投げ出さなかったのは、1年時からレギュラーとして起用され、試合を通じて自分が成長しているのが分かったからだ。

「可能性を感じさせるプレーをしていました。『普通、ここでは打たないでしょ』というところからシュートを打って決めたり、『この打点で叩きつけることは無理でしょ』というところからヘッドを決めたり、監督やコーチを驚かせるプレーが多かったんです。で、ついつい使ってみたくなる(笑)。最初は90分で使うのは無理だと思っていたけど、徐々に使っていけば何かが起きるかもしれないと思って、1年のときから起用し続けました。伸びた要素はいろいろありますが、やっぱり、ボールの受け方が一番うまくなりました。中大に来たときは、まともにくさびを受けられなかったけど、上級生の村田にこと細かく『このタイミングで降りてこい』と、教えてもらっていました」(白須監督)

 後期になると、できることが多くなった。相手に奪われずにボールを持てるようになり、中盤の選手を使ったり、反転してシュートに持ち込むなどプレーの幅も広がった。
 選手としての引き出しが増え、相手に守備の的を絞らせない。結果、ド迫力のシュートも生きるようになる。六平光成(現清水)や今井智基(現大宮)をはじめ、強烈な個性を持つチームメイトに存在感で全く劣らない。そんな選手をJリーグのクラブが放っておくわけがなかった。

「明日から、フロンターレの練習に3日間、参加です」。大学2年の終盤、中央大の監督からの携帯メールで川崎Fの練習に参加することを知らされた。練習当日はプロの空気に触れ、緊張で体が固まった。最初の練習は2人ひと組。ひとりがボールを投げ、もうひとりがそのボールを蹴って返すものだ。

「コーチが『ペア組んで〜』と言うと、周りはみんなバーっとすぐ組むのに、俺には誰も相手がいない。『やべー。誰もいねー』とか思っていたら、稲さん(稲本潤一)が来てくれて。『うわ! 稲本だよ。02年のワールドカップでゴールを決めた人と一緒に練習できるなんて』と(笑)。一番覚えています」

 翌年の3月にはデンソーチャレンジカップで川崎Fのスカウト陣の前でゴールを挙げ、アピールに成功。ふたたび練習に招待され、同11年には正式なオファーも受けた。その場では返事をしなかったが、「川崎以外、考えていなかった」。そして、翌12年5月28日、川崎入りを発表した。

DF3 YUSUKE 田中祐介

展望

 プロに入ってからは、いまに至るまでケガに苦しんでいる。新体制会見でヒザの手術を受けると発表。完全に治る前に臨んだ公式戦(ナビスコカップの大宮戦)でケガを再発させ、戦線から離脱することになった。だが、ただで転ぶつもりはない。

「試合に出る決断をしたのは俺だけど、その前に(中村)憲剛さんから『お前、痛そうだな。焦るなよ』と言われていたんです。いま思うと、あれは憲剛さん自身の経験を踏まえての言葉だったと思うし、次、ケガを抱えた状態で試合に出場できるか、できないかの立場になったら勇気を持って休みます。こんなに長く休んだのは初めてなので、その分復帰したら精神的に強くなると思います。当面の目標は、ヒザをしっかり治すこと。そこからがスタートです」

 足元を見つつ、先も見据える。Jリーグでの目標は得点王。代表では北朝鮮をワールドカップ16強に導くこと。そのために近づくべきストライカー像も描いている。

「ここぞというとき、例えばチームが苦しいときや、勝てば優勝が決まる試合でゴールを決められる選手になりたいです。意味がないゴールはないと思うけど、世の中ですごいと言われるフォワードって、大事な場面で点を取っているイメージが強いんです。俺もそうなりたいし、そこに少しでも近づくために、早くケガを治して練習に戻りたい」

 早くシュートを打ちたい。早く練習したい。サッカーと向き合うまっすぐな姿勢は、毎朝、シュート練習に打ち込んでいた高校生の頃から変わっていない。

マッチデー

   

profile
[あん・びょんじゅん]

中央大学から加入した大型FW。恵まれた体とスピード、そしてシュート力にすぐれており、レギュラー争いに加われるだけのポテンシャルを秘めている。

1990年5月22日/東京都
国分寺市生まれ
183cm/73kg
ニックネーム:ビョンジュン

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