MF34/パウリーニョ
テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)
温和な笑顔で日本語を流暢に話せるほど、日本に溶け込もうと努力する人。
栃木で圧倒的な信頼を得て、2014年自身も念願だったJ1でプレーすることに。
パウリーニョの半生と彼の想いは、どこにあるのだろうか──。
フロンターレサポーターの皆さん、こんにちは。
パウリーニョです。
今日は私のことについて皆さんにお伝えします。
私は、ブラジルのサンタカタリーナ州というところで生まれ育ちました。キレイな海もあり、ドイツを彷彿とさせるようなヨーロッパの様な美しい街並みがある場所です。そんな街で、私は繊維工場勤務のお父さん、ポルトガル語の先生だったお母さん、2歳年上のお姉さんと4人家族で暮らしていました。裕福ではありませんでしたが、シンプルな暮らしのなかに家族でよりよい選択を心がけるような毎日を送っていました。私は外見はお母さん似ですが、性格はお父さん似です。お父さんはサッカーが好きで、落ち着いていて、私よりもユーモアがあります。お父さんのポジティブさに影響を受けましたし、何かの選択の際に正しい方向に導いてくれました。
ブラジルのほとんどの子どもがそうだと思いますが、私も小さい頃からサッカー漬けの毎日でした。7歳のときに叔父さんの勧めで地元のスクールに入りました。12歳までは週2〜3回、自宅から2km程離れたサッカースクールでしたが、最初はバスで通い、年上のお兄さんたちの真似をして少し大きくなってからは自転車で通うようになりました。12歳からは、フットサルも始めたので、平日はサッカーとフットサルの練習が半々、週末もどちらかがサッカーでどちらかがフットサルの試合が入り、サッカーが生活の中心でした。
ブラジル人でサッカーをやっている子どもたちのほとんどがプロを夢見ていると思いますが、その通りになれるのはほんの一握りです。振り返ると、友だちと遊ぶことも修学旅行に行くことも諦めて、サッカーを常に選択してきた生活でした。もちろん、子どもですから嘘はつけないので正直に言えば遊びたい時もありました。ただ、ほとんどの場合、サッカーと何かの選択肢があったら、サッカーを選んできました。もちろんそうした努力をした上でプロ選手になれなかった人もいると思います。ただ、私は、その選択をしていくことで夢に辿りつくこともあるのだと思います。
その頃の私は、足が速く町の点取り屋でした。12歳になった私は、地元に出来たメトロポリターナに加入し、15歳でプロ契約を結ぶことになりました。
その経緯は、こういうものでした。
当時も私はフットサルを続けていました。フットサルでも活躍していた私にフットサルのプロチームからオファーがありました。その同時期に、メトロポリターナの監督から経営者に「いい選手がいるのに失うことになるぞ」と話があったのだそうです。周囲から話を聞いたその経営者は、私のことを知らなかったのですが、いい選手だという話を育成スタッフからも聞いていたので、スタッフを信用し、私を獲ることにしたのです。そして、その経営者の方は今でも私の代理人をしてくれています。
私はこうしてメトロポリターナでプロ契約をしました。ブラジルでは16歳になるシーズンからプロ契約が可能になるため、1月生まれの私は16歳になった年に正確にいえば契約をしました。
それから試合に出られるようになりました。しかし、1ヵ月後に怪我をし、それから1年間プレーができませんでした。ですが、そのプレーをしたわずか1ヵ月の間にプレーを見てくれていたグレミオがリハビリ中にも関わらずオファーをくれたのです。
こうして私は2006年にグレミオに行くことになり、人生で初めての一人暮らしも経験しました。グレミオでの4年間で、人間としても成長しましたし、サッカー面でもたくさんのことを学ぶことができました。戦術面の要求も高かったですし、ブラジルは南地方は激しくぶつかりあうサッカースタイルなので、自分にとってもためになりました。1年目は攻撃的な中盤でしたが、ディフェンス面も要求され成長することができました。ある時、試合中に2度程、ボランチに使われることがありました。すると、後日、監督から呼ばれ「今後は、ボランチで使おうと思う」と告げられました。監督としては、後ろからボールを受けて自分の攻撃的な部分、つまり前にボールを配給してほしいということが狙いでした。ただ、正直に言えば、最初はボランチがあまり好きではありませんでした。ただ、取り組んだ結果、自分にとっては結果的に、転機となるコンバートになったと思います。
ボランチは、ピッチの真ん中で周囲に指示を出したり、たくさん声も出すポジションです。そういう役割や個人的にもいい時期でしたので、2009年にはキャプテンを任され、U-20の大きな大会の3つのうち、2つのタイトルを獲ることができました。
2009年の途中、実質的なプロとしてのスタートとなる、そしてビッグクラブであるヴァスコ・ダ・ガマに移籍することになりました。
今でも思い出します。
憧れのマラカナンスタジアム。
ヴァスコ・ダ・ガマ対フラメンゴの一戦。
試合は0対1で敗れてしまいましたが、アドリアーノら有名な選手たちも揃うフラメンゴに対し、ヴァスコは実は2度PKがありどちらも外してしまい、一方のフラメンゴはPKのチャンスを決めて勝利を決めたという試合でした。負けてしまったけれど、自分もいいプレーができたし、やはり特別な場所で試合ができたことは今でも、とても印象深い出来事です。
その後、監督が代わり、出番をなくしていた私のもとに、遠く日本からオファーが舞い込みました。
日本に対するイメージはいい印象しかありませんでした。また、母国を離れて海外でプレーすることは自分の成長にもつながると思いました。両親も応援してくれ、私もすぐに決断をすることができました。
日本への出発前に家族や友だちが開いてくれた送別会。
これからの希望半分と、別れの悲しさが半分。私は、涙を流してしまったけれど、それは普通の感情だったと思います。若干の恐さや不安はありました。でも、それ以上にその選択は私にとって価値があり、正しい道へと導いてくれたものでした。
2010年南アフリカワールドカップ開催中のその時に、私は初めて日本の地に降り立ちました。
成田空港に着いて、その足で栃木がキャンプを張る那須塩原まで向かいました。
キャンプ地に着いた私は、少々戸惑っていました。当たり前ですが、何もかもが一瞬で変わりました。見慣れない文字で書かれた看板の数々、目の前にはたくさんの日本人がいる。車のハンドルは左右逆、そうした全てが一瞬のうちに変わり、自分の中にあった不安な気持ちが顔を出してきたことを今でも思い出します。
でも、そんな時、当時の通訳が「元気か? 疲れてないか?」と笑顔でハグをし、優しく私を迎え入れてくれました。人間は、思わず行動したことも、相手にとって重要な意味合いになる場合があります。彼のしてくれたことは、私にとってとても大きなもので、不安だった気持ちも楽になりホッとした気持ちになることができました。感謝の気持ちでいっぱいです。
私のJ2でのチャレンジが始まりました。
まず、日本語を覚えようと思いました。それが必要だと思ったし、日本人の温かさで私を受け入れてくれていることもわかりましたので、早く自分がフィットしようという思いでいっぱいでした。当時の監督だった松田さんはポルトガル語も理解したので、毎日話をすることで理解を深めていくこともできました。
2011シーズンは、過去を振り返っても一番よいシーズンでした。チームも昇格争いをしていましたし、自分自身もいいプレーができていました。
しかし、9月4日FC東京戦で右腓骨骨折。もちろん怪我は残念でしたが、リハビリ中に学ぶこともありましたし、クラブやチームメイト、サポーターが自分を支えてくれたことにも気づけた出来事でした。
2012シーズン、私は栃木でキャプテンを務めました。グレミオ時代にキャプテンになりタイトルを獲った運もあった話を強化スタッフとしていたことがキッカケで、監督から話があった時、キャプテンを受けました。とはいえ、自分の考えで推し進めるというよりも、副キャプテンふたりと常に話し合い、決めたことをチームメイトに伝えていました。何よりキャプテンとしてチームの士気を高めることを大切にしていました。そしてこの年の7月に栃木に完全移籍をすることになりました。
2013シーズン、5月26日横浜FC戦で、私は左腓骨骨折、三角靭帯断裂という怪我をしました。悲しい想いもありましたが、私はカトリック教徒として神を信じています。神様からパワーをもらいそれを支えとし、また右足の怪我から得た治療も活かし、回復へと向かっていきました。そして、予定より早く114日で復帰することができました。復帰後の、Jリーグ10試合は負けなしで走ることができました。
そして、2014シーズン──。
私のひとつの目標であり念願だったJ1川崎フロンターレでプレーするという幸運に恵まれました。
正直に言えば、昨年、怪我をした時、ふと「これでJ1でプレーするという夢から遠ざかったな」という思いがよぎりました。来日してからJ1からの話もいくつかありましたが、2011年は怪我をしてしまった。2012年は自分の決断として今がタイミングではないと判断した年でした。2013年にもチャンスはありましたが、また怪我をしてしまった。決して順風満帆ではなったので、今、フロンターレというビッグクラブに所属し、プレーするチャンスをもらったことは、今までの人生のなかで、またひとつの大きな財産となる出来事でした。
2014年J1開幕戦。私はスタメンで出るチャンスを掴みました。しかし、序盤戦はなかなかチームとして結果が出ず、メンバーが少し入れ替わり、結果的にそこから結果が出るようになりました。私にできることは、トレーニングから全力でやるだけです。今、私がポジション争いをしているのは、素晴らしいプレイヤーであるケンゴ、これから日本においてさらに活躍していくと個人的に思っているリョウタ、昨年から試合に出ていたマサキ、説明の必要もないイナさん…、と素晴らしい選手たちばかりです。改めて言いますが、今、ここにいること自体、私にとって自分が勝ち得た大きな意味を持つことです。やっと、ここまで辿りつくことができました。ですから、ここから先もたくさんやるべきことがあるし、変えなければいけないところもあるし、新たなチャンスを掴み試合に出ることを諦めずにやっていきたい。
私は今、フロンターレでとても刺激を受けています。風間さんのサッカースタイルは今まで経験してきたものとは違うものですが、学ぶことがたくさんありプロ選手として成長ができると感じています。ジェシの人間性にも学ぶべきところがたくさんあります。それから、ケンゴの存在はフロンターレにとって大きなものです。日々の生活のなかでケンゴを見ていると、普通の人だなと思います。あれだけの選手になれば天狗になる部分もありそうなものですが、私が見るケンゴはその真逆の人。もちろん周囲にいる人たちはケンゴをリスペクトしていますが、ケンゴ自身は謙虚であり、彼がフロンターレにもたらしている力は大きなものだと感じます。フロンターレというクラブは優勝に値するクラブだと思うとともに、ケンゴもそれに値する、と私は思います。
最後になりますが、フロンターレのサポーターの皆さん。フロンターレに来る前から優しくて有名な皆さんのことは聞いていましたが、実際にきてその通りだと思いました。チームがいかなる状況の時でも、変わらずに支えてくれる。今シーズンが終わる時、サポーターの後押しのおかげで、一緒に喜びを分かち合えるのではないか。そんな目標や夢を今、私は思い描いています。
栃木SCから期限付き移籍で新加入。フィジカルコンタクトの強さを生かしたボール奪取と、奪ったボールを前に運ぶ推進力が武器のMF。栃木ではキャプテンを務めていたように、強いメンタリティとクレバーさも兼ね備える。
1989年1月26日ブラジル、
サンタカタリーナ州生まれ
ニックネーム:
パウロ、パウリーニョ