GKコーチ/菊池新吉
テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)
目の前のことに向き合い、努力を重ねてきた結果が今の人生──。
継続は力なり。
まさにその言葉を実践してきた菊池新吉が歩んできた人生と、GKコーチとして選手たちと向き合う日々を語る。
1993年、Jリーグ開幕。
スター選手が揃い、横浜マリノス(当時)との開幕戦で華々しく国立競技場に現れたヴェルディ川崎のGKとして菊池新吉はピッチに立っていた。
J1が開幕したその年に16完封勝利をあげ、初代Jリーグチャンピオンとなり、その後も常勝軍団の不動のGKだったことは言うまでもなく、複数のタイトル獲得に貢献、そして日本代表GKとしても活躍したことは皆さんも記憶にあるだろう。
菊池は、そのほとんどをヴェルディで過ごしたが、唯一1年間だけ、他クラブのユニホームに袖を通したことがあった。
2000年、フロンターレはその前年に3年越しの悲願としてJ1昇格を果たし、2000年にJ1リーグを戦うスタートとなる年だった。この年、他のJ1クラブから大型補強がされ、そのひとりがヴェルディから期限付き移籍でフロンターレに加入した菊池新吉だった。
だが、この年、フロンターレはわずか1年でJ2降格が決定してしまうという憂き目に遭う。結果的にこの年補強した選手の多くは、1年でクラブを離れることになった。今振り返れば、現在のフロンターレの再出発となる原点ともいうべき年が2000年シーズンだった。
その後、ヴェルディに戻り2001シーズンを戦っていた菊池は、J1リーグで厳しい戦いを強いられていた。その年の暮れ、菊池は引退を決意することになるのだが、そのキッカケとなったのは奇しくも川崎フロンターレとの一戦だったのだという。
伊藤宏樹らが加入した2001年の川崎フロンターレは、再出発の年となったJ2リーグでも振るわず7位という成績に終わっていた。この年、多数の選手がチームを離れることが決まり、最後となった天皇杯は、彼らの活躍もあり準決勝で清水エスパルスに1対2で敗退するまで勝ち上がっていた。ちなみに、その成績は現在でもフロンターレが天皇杯で最も勝ち進んだ戦績として残っている。その一つ前の準々決勝がヴェルディとの対戦で、ヴェルディのGKとしてピッチにいたのが菊池だったのだ。
この試合、フロンターレは、久野智昭の先制ゴール、そして伊藤彰の2ゴールでヴェルディを破った。
菊池は、伊藤のゴールを止められなかった時、引退を決断した。
「2000年にフロンターレに助っ人として呼ばれたのですが結果が出せず2001年にヴェルディに戻りました。その年は、ヴェルディもJ2降格の危機にあり、読売クラブ時代から先輩方が築いてきた歴史の重みもあり、なかなか勝てず重圧がありました。最終的に、引退を決めたのは伊藤彰のゴール。自分の一番得意なカタチでとめられると思ったにもかかわらず、ゴールを許してしまったこと。あの瞬間、俺はもう無理だなって思いました」
引退をした時の心境は、意外にもスッキリと納得のいくものだったという。
「守備の選手は、常に相手のアクションに対してリアクションを取っていかなければいけないので、年齢を重ねるごとにリアクションのスピードが落ちてくるということをいろんな先輩から聞かされていましたし、足がいままで出ていたところが出なくなったら終わりだっていうことなども聞いていました。だから、本当に得意なプレーが出来なくなったので意外と納得ができました。それに、ここまで僕が予想していた以上のサッカー人生を歩ませてもらいましたから。高校を卒業して、Jリーグが始まる前の日本リーグ時代の読売クラブに入り、そこからまさか自分がここまでできると思わなかったですから。そういう意味では、むしろそこまでできたということに満足できたというか、一生懸命目の前の事に向き合い、やり続けたことが結果がつながった。満足のいく選手生活でした」
菊池新吉は、岩手県遠野市で生まれ育った。
幼い頃に父を亡くし、母が男4人兄弟を育ててくれた。小学生時代には新聞配達などもやりながら、学校生活、そしてサッカーにのめり込んだ。文集には、サッカー選手になりたいと書いた。
「基本的に食事以外は、全部自分でやりなさいと言われていたので、自分のことに関しては洗濯とか掃除とかもやっていましたね。それを努力をしたと思ってやっていたわけじゃなくて、誰も手伝ってはくれない環境でした。かといって自分でできないことは、おふくろにも素直に話していました。当時はそれが日常のことで、朝起きて歯を磨くように日常生活として苦だとも思っていなかったです」
「器用だった」という菊池は、サッカーをやりながらも、陸上部に借り出されては短距離、走り幅跳び、走り高跳びなどでも市の大会で1、2位を争うなど高い運動能力を発揮している少年だった。
岩手のサッカー名門・遠野高校に進学した後は、地元企業への就職も考えていたが、サッカーで頭角を表した菊池は、日本リーグ時代の読売クラブへと進むことになる。
それからの活躍は、前述の通りで、そうした遠野で過ごしたサッカー少年時代、読売クラブでの日々、Jリーグ開幕、日本代表…、そのすべては1日1日を積み重ねた結果で得られたもので、最初から結果を望んでいたものばかりではなかった。
「計算してやっていたわけではないし、日本代表に入りたくてやっていたわけじゃなく、コツコツと目の前の試合でしっかりと結果を残して、先のことを考えず、今できるベストを尽くしていただけでした。そうして結果を残していれば、おのずとついてくるものだと思っていたし、最終的に結果につながったのかなと思います」
菊池の故郷、岩手県は東日本大震災で大きな被害を受けたが、菊池もまた、親戚3人の尊い命が震災によって奪われてしまった。故郷の遠野で毎年サッカー教室を開いている菊池は、震災後は、被災地の子どもたちも招き、同じ岩手出身の小笠原満男や岩清水梓らも参加するサッカー教室を続けている。
「だれでもサッカーやっている時は、純粋な笑顔でボールを追いかけていますからね」
今でも、故郷をずっと大事にしている。
そして、時は経ち──。
引退から約12年の歳月が流れ、菊池新吉は、再び川崎フロンターレにやってきた。今度は、GKコーチとして。
「率直な思いとして、2000年当時にフロンターレがJ2からJ1に昇格し、戦力を整えようと移籍や期限付き移籍などで選手を補強していました。その時に僕にも声をかけてもらいました。当然、チームが結果を出すため、いい成績を出すためだったのですが、個人としてもチームとしても結果が出ず力になれなかったことは申し訳なかったという思いが残っていました。今回、またスタッフとして声をかけていただき感謝しましたし、それ以上に強かったのは選手の時にはいいものを残せなかったという思いがあったので、今度こそは当時の分もしっかりとやるべきことをやりたいという気持ちが強かったですね」
それから約2年半が経った。
風間監督のもと、攻撃の最後尾という捉え方で、GKに求められる要素は、守備だけでなく、攻撃の起点としての役割を担っている。「攻撃は最大の防御」だと言うが、菊池もまたその考えを大事にし、なおかつボールを失った時にどうするかというリスクマネジメントを毎試合前、整理して試合に臨んでいる。そして、その試合に出られるGKは当然だがひとりしかいない。
そう、GKは特殊なポジションである。
たったひとつのポジションしかない。練習もGK独自のメニューが行われることが多く、チームメイト同士で協力しあわないと成り立たない。ライバルでありながらも、仲間である。そうしたメンバーを取りまとめてモチベーションをそれぞれに保ちながら、試合に向けて、各々の成長やスキルをあげていくことを促していくGKコーチという役割もまた、特殊なものだと思う。
川崎フロンターレに所属するGKは4選手。杉山力裕、西部洋平、安藤駿介、新井章太の4名だ。試合に出ているもの、控えメンバーとしてベンチ入りするもの、試合出場やベンチ入りを目指しているもの。それぞれが、それぞれの目標の中で、日々トレーニングしている。
GKコーチとしての菊池新吉という人は、どういう人なのか?
それを知る為には、この4選手から話を聞くのが一番いいだろうと思った。そこから浮き彫りになるコーチ像、人間像がきっと、あるはずだ。
新井章太の話。
「新吉さんは、すごい真面目。若い俺らがすごい勉強になる。まだ年齢が若い今、会えてよかった人。僕は試合に絡めていないけれど、僕たちにもきっちりと同じように準備をしてくれる。ありがたいし、凄い人だと思っています」
安藤駿介の話。
「今までブラジル人GKコーチの指導を受けることが多かったので、新吉さんには細かいところまでアドバイスをもらい、フォームの形、体の使い方など教えてもらっています。まじめで、きっちりした方。GK練習のシュートを受ける本数など、きっちりと本数どおりに必ずやる。増えも、減りもせず、きっちりと決まったメニューをやりますね」
西部洋平の話。
「新吉さんはキャリアもすごい人なのに、そういう部分は出さず、ぼくらのことを考えて受け入れてくれています。人として尊敬しています。今の年齢になって練習内容についても相談できるところもあり、それはとてもありがたいことだし、メンタルのコントロールもしてもらっています。基本的に新吉さんは、いつも変わらずにいてくれて、「いつもどおりにやろう」というスタンス。それが例え決勝の場だったとしても「いつもどおりにやろう」と言ってくれる人。あと、常にGKの絶対的な味方でいてくれる。それは、なかなかできないことだと思う。クラブもひとつの社会だから出来そうで出来ない部分だと思うけれど、何があっても味方でいて、かばってくれることはGKとしてありがたいことです」
杉山力裕の話。
「すごい気にかけてくれて、とにかく優しい方。Jリーグの全盛期に活躍されていた方なのに、すごく控えめで気を遣ってくれる。自分が試合に出られなくなった時なども察してくれて、イライラした気持ちをなだめてくれたりメンタルのケアをしてくれる。だから、自分は新吉さんには自分の気持ちをごまかさずに言えるし、新吉さんも返してくれる、そういう信頼関係があります」
彼らの話を聞いていくと、誰に対しても気にかけ、まじめで誠実な人柄が見えてくる。そしてフロンターレというクラブの中にあって、GKコーチとGK選手4人で形成するひとつの“チーム"が出来上がっており、その信頼関係の深さを感じた。
菊池新吉の話。
「GKって、ネガティブな要素がポジション的に多いと思うんですね。ポジションもひとつしかないし、点を取られてしまう場面がある。サッカーというスポーツのなかで、GKという立ち位置は、そういうものです。僕は、そういうミスした時の気持ちもわかるし、いいプレーした時はもちろんいい気分になりますが、そうじゃないことのほうが多いポジションです。そうした痛みがわかるので、経験した僕にしかわからない気持ちもあると思う。もちろん選手とコーチとしてのラインを引かなければいけないところもありますが、選手がミスしてやられれば自分のことのように心は痛いです。でも、前に一緒に進んでいこうという気持ちです。選手はグラウンドに立ちたいという気持ちは誰でも持っています。ヨウヘイは兄貴的な存在でGK陣をまとめている。エスパルスや湘南と対戦した時に相手チームの選手たちが彼に寄って来た。そういう人間味がある。リキは、自分の身体をいじめて鍛えぬくタイプ。以前は筋肉系の怪我もあったので、身体の状態をみながら負荷をかけるようにしています。彼は昨年試合にも出て、今シーズンも強い気持ちをもって入ってきましたが、ヨウヘイも簡単にポジションは明け渡せないというものもある。アンちゃんは、あの通りマイペースですが丈夫で怪我をしない身体がある。今、自分に何が足りないのかを見つけ、コツコツとやり続けています。ショウタもトレーニングを積んで伸びているので後は、経験だけです。みんな、それぞれ頑張っていて、気持ちはそれぞれに分かります。でもかといって誰かに肩入れする気はないし、同じように頑張ってもらい、結果としていいコンディションの選手が試合に出られるのが一番いいと思っています。コーチに自分から痛みを言ってくる選手はいないし、大丈夫か?と聞けば、大丈夫ですと答えるでしょう。だから、表情とか仕草とかを見逃さず、無理してやらせたりしないでコントロールしてあげることが大切だと思っています」
こうしてGKコーチとGK選手たちは、日々、トレーニングを積み重ね、目の前の試合で全力を尽くしている。菊池は、12年ぶりにフロンターレに戻り、選手時代と同じように、また幸せを感じているのだという。
「GKコーチとしてフロンターレというクラブで仕事をさせてもらえることは、幸せなことだと思っています」
その幸せな感覚は、サポーターに対しても向けられている。試合当日、スタジアムに入る前、ミーティングのため選手、コーチングスタッフは集まるのだが、その集合場所に向かう途中、親子でフロンターレユニホームを着て自転車に乗るサポーター、歩いて等々力競技場に向かうサポーターをたくさん目にする。そんな時、チームへの期待と共に幸せを感じるのだという。
「僕は、現役時代、閑散とした等々力でプレーしていたこともありました。今、たくさんのサポーターが等々力に来て、地元の方がたくさん応援してくれることをうれしく思いますし、みんなで作っているチームなんだということを実感しています。そういうクラブで仕事をさせてもらっている責任を感じて、その責任のもとにタイトルというクラブの目標に向かって、日々、やるべきことをやっていきたいと思います。僕個人の思いとしても、たくさんのサポーターがいて、いい選手がいて、いい舞台が整っているチームで一緒にみんなで上を目指していきたいです」
継続は、力なり。
それをずっと実践し続けてきた人なのだ、と思った。
そしてまた、タイトルというフロンターレの目標に向かい、地に足をつけて「一歩」の大切さを知っている菊池の経験やメンタリティが必要であり、活きてくるだろう。
1986年に読売サッカークラブでキャリアをスタートして以来、30年あまりに渡って日本のサッカー界と共に歩んできた。ヴェルデイ時代には、フロンターレへのレンタル移籍(2000年)の過去もあり浅からぬ因縁がある。2001年に現役引退し指導者の道へ進む。好きな言葉は「努力」。
1967年4月12日、岩手県
遠野市生まれ
ニックネーム:シンキチ