"JUNINHO" Carlos Alberto Carvalho Dos Anjos Junior【2003-2011】
テキスト/麻生広郷 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Asou,Hirosato photo by Ohori,Suguru (Official)
2003年から9年間にわたりフロンターレでプレー。チームの大エースとしてピッチに君臨し、J2得点王、J1得点王を獲得。
一瞬にしてDFを抜き去る瞬発力、勝利への執念心を前面に押し出したプレースタイルは、多くのサポーターの心に刻まれています。
2012年から2年間鹿島アントラーズでプレーし、その後はブラジルに帰国。今回、Jリーグ功労選手賞の表彰式に参加するために
来日したジュニーニョに近況を伺いました。
──日本に来たのはいつぶりですか?
「2013年のシーズンが終わってからブラジルに戻ったので、約1年ぶりかな。まだ日本に着いたばかりなのでで、若干時差ボケがあって辛いね」
──スリムな体型は日本でプレーしていた頃と全然変わっていないですね。
「フィットネストレーニングは毎日やっているし、たまに地元でサッカーをやることもあるよ。プレーするためのコンディション作りは怠っていない」
──2011年から2年間鹿島でプレーした後、どのような身の振り方を考えていたんですか?
「2013年も日本に残る選択肢もあって、Jリーグでプレーすることを考えてはいた。だけど一度ブラジルに戻ってからは少し難しい状況になってしまったね」
──日本以外の国からのオファーもあったんですか?
「ブラジルのポルトゲーザというクラブから話があって、一度練習にも参加したんだ。だけどクラブを取り巻く環境が自分がイメージしたものとは少し違っていたので、一度ゆっくりしてこの先のことを考えることにした」
──故郷のサルバトーレに戻ってからは、どんな生活をしていたんですか?
「現役でプレーすることも視野に入れつつ、それ以外のことでも動いていたね。オフ期間にブラジルに戻ることはあったけど、何しろ11年間日本で生活していたわけだから、いろいろクリアしなければいけないことがあるんだ。自分の身の回りのこともそうだけど、家族のことも考えなければいけない。子供たちも日本の生活に慣れているからね。学校に通わせるにしても日本では少人数制だったけど、ブラジルでは普通の学校に入ってたくさんの子供たちと一緒に生活しなきゃいけない。最初は本当にバタバタしていて大変だった」
──プライベート面でかなり忙しい1年だったんですね。
「ブラジルに戻ってきた当初は本当に忙しかったよ。長い間離れていたからやることが多くて、何から手をつけたらいいんだろうという感じ。ただ、それも今年いっぱいかな。今年1年間で自分の身の回りことを解決して、2015年に入ったらこの先のことを本格的に考えていこうと思っているよ。プロサッカー選手を続けるのか、それとも指導者を目指すのか、もしくはそれ以外のことをやるのか。いまのところはまだ決めかねているけどね」
──2014年は充電期間ということですか?
「そうだね。来年には方向性を決めていきたい」
──サッカー以外のビジネスに関わっていくことは考えていないんですか?
「住宅を扱っている会社は昔から持っているんだけど、日本とブラジルで離れていたから、いろいろトラブルも多かった。でもいまのところ、その会社はあくまでオプションのひとつという感じかな。自分がプレーしないとしても、サッカーに関わる仕事は続けていきたいと思ってる。エージェントとして選手と一緒に仕事をするかもしれないし。とにかく2014年はいろいろ考えることが多かったね」
──今回、1年ぶりの日本ですが、何かやっておきたいことはありますか?
「日本にたくさんの知人や友人いるので、会いたいと思う。まぁこの1年間はブラジルでいろいろ忙しかったから、今回は逆に日本に羽根を伸ばしにきた感じかな。あとはショッピングに行こうかな。実は7月に3人目の子供が産まれる予定なんだ。だから子供服も買って帰ろうと思ってる。おかげさまで家族円満に暮らしているよ」
──話を日本にいた頃に戻しますが、鹿島の一員としてフロンターレと対戦したとき、どんな心境だったんですか?
「プロとしてチームのために戦うというのが一番ではあるけど、フロンターレは9年間プレーしていた思い入れのあるクラブなので、やっぱり他のゲームとは違うものだった。鹿島の選手として等々力のピッチに立ったとき、何とも不思議な感覚だった」
──川崎フロンターレというクラブは、ジュニーニョにとってどんな存在ですか?
「自分の人生のなかで大きな部分を占めているのは間違いない。自分だけではなく家族の人生にとってもすごく大きなもので、大切な思い出だよ。チームメイトにも恵まれた。あの頃はシュウヘイ(寺田周平)やヒロキ(伊藤宏樹)、アウグストもいて、ケンゴ(中村憲剛)とは同時期にチームに加入した仲間だよ。ここでは全員の名前を出しきれないけど、みんなファミリーだと思っているし、すごくいい関係を築くことができていたと思う。ピッチ以外でもみんなを自宅に呼んでシュハスコやったり、すごくいい時期を過ごすことができた」
──フロンターレでプレーしていた頃に印象に残っている出来事はありますか?
「サポーターの人数が年々増えていったことだね。来日した当初はコアなサポーターたちがいるエリアが小さかったけど、年を追うごとにその集団が広がっていって、最終的にはスタジアムが満員になった。そうやって年々規模が大きくなっていったことが感慨深いね」
──ジュニーニョ自身も年々プレーが磨かれていった印象ですが。
「それはやっぱり経験と自信が大きいと思う。実績を残していくことによって、自分自身のプレーも幅が広がってきたと思う」
──フロンターレのサポーターとの思い出はありますか?
「サポーターの声援は間違いなく自分の力になった。それはいまでも思っている。フロンターレでの9年間はすごく長い時間だったけど、サポーターはつねに自分のことを支えてくれた。銅像を建てるための資金を募ってくれているのも知ってる。そういう形でリスペクトされるサッカー選手は限られた人数しかいないから、本当に光栄なこと。サポーターがそういったアクションを起こしてくれるということは、みんなの心のなかに自分の存在が残っているということだから、そういう意味でもすごく嬉しいんだ。本当に申し訳ないんだけど、もう少しだけ待っていて欲しい。来年には自分のサッカー人生の方向性がはっきりすると思うので」
──では最後に、フロンターレに関わる人たちに向けてメッセージをお願いします。
「サッカー選手はスタンドからのサポーターの声援で力を与えてもらっている。だから、いままで以上に選手を信じて、後押しして欲しい。選手たちは皆さんの後押しを受けて、自分たちの力をピッチで表現してくれると思う。まだタイトルという目標には届いていないけど、いつかタイトルを獲ってもらいたいというのはサポーターの願いであって、自分の願いでもあるんだ。
そしてクラブには未来がある。まだ少し気が早いかもしれないけど、再来年の2016年は川崎フロンターレ創設20周年の年なんだってね。もし可能であればそのときにまた違った形で日本に来たいし、フロンターレ20周年のお祝いをしたいと思う。その頃には自分の人生の方向性も決まっているだろうし。またみんなと会えることを楽しみにしているよ。じゃあその日まで。サヨナラ! アリガトウ!」
2003年の入団以来、2011シーズンまでチームのエースとして君臨した「川崎の太陽」。瞬発力にクレバーさを加えたプレースタイルは、2004年のJ1昇格、J1での進撃にも大きく貢献した。2011シーズン終了と共に川崎を退団、2012年から鹿島アントラーズに移籍し2シーズンを戦う。
1977年9月15日/ブラジル、
バイーア州生まれ
ニックネーム:ジュニ